舞台監督にインタビュー

舞台監督の生の声をお届けします。

「舞台監督の仕事ってどんなことをするんですか?」 説明するのはなかなか難しい…が一番多く、また必要な質問だと思う。 「なんでも屋」的な部分を多く含んでいる舞台監督の仕事を大雑把に説明すると、3段階になる。

1.クライアントに会いに行き、話しを聞く。要望をイメージ化したり文章にしたりして「実現への設計図」を作る。
2.スケジュール、人員の手配、場所の手配、安全対策など・・・必要な人・場所・物など全てをもれなくチェックして準備する。
3.本番当日、設計図どおりに進行するように指示を出し、ハプニングに臨機応変に対応しながら危機を回避してクライアントの要望の実現をする。

・・・と説明しても、なかなかわかりづらい。 なので、「説明をする」のではなく、別の切り口から「歩み寄って」いただけないだろうかと考えました。 この仕事していて、嬉しかったこと、辛かったこと、面白かったことなど 生の声を聞いていただけたら・・・ そういう訳で、連載スタートとあいなりました。

最新のインタビュー
バックナンバー

金一会長の小史 その一 

クリエイト通信担当者より自分自身のことについて書いてみてくださいと頼まれ、昔のことをほとんど省みなかった自分にとってよい機会と思い書いてみる事にしました。元来の性格で、何時、何処で、何がということに疎く、思い出しつつ書いているため日時に関して不正確なところがあるかもしれないことを予めお断りしておきたいと思います。

<誕生から中学生時代>

戸籍上は昭和13年(1938年)1月20日生まれになっていますが、高校時代アルバイトをするため戸籍謄本を取ってみるまでは昭和14年生まれとして全てのものに書いていました。両親に確認したところ父は昭和14年生まれだと言い、母は15年だと主張し、その根拠を聞かされたのですがそれぞれに妥当性があり、戦争で役所の戸籍が焼けてしまったこともあり、どうもはっきりしませんでした。まあそんな時代だったのでしょう。  生まれた場所は大阪市生田区今里新地 遊郭の御茶屋の長男として生まれました。 当時、生田区は、多分日本中で一番朝鮮人人口の多いところだったこともあり友達が多かった割には、名前が金一であったため、朝鮮の友達には日本人と思われ、日本人の人からは朝鮮人ではないかと考えられ、一匹狼でありイソップのこうもりのようでもありました。映画 催洋一「血と骨」に描かれているような世界そのものだったように思います。

chitohone1.jpg

小さいころは何不自由なく育てられましたが父親が暴力的に怖かったこと、そして阿佐田哲也「麻雀放浪記」のようにヒトポン(今で言う覚せい剤)を打ちながらいつも麻雀をしていたこと、その膝のうえで自然に技量を身につけ爆撃で家が焼けてしまい食べるものもなくなった時には賭け麻雀で稼げるようになっていました。 喧嘩は弱いくせに向こう意気だけは強く渇上げや小松左京の「日本アパッチ族」の中に描かれた鉄屑泥棒も経験しました。年老いた顔面にその傷跡を今も辿ることができます。

 maajan3.jpg 

子供のころの戦争体験で記憶に残っているものはB―29(アメリカの爆撃機)の焼夷弾が花火の様に思えたり、グラマン戦闘機の機銃掃射から逃げるのが何故か恐怖より鬼ごっこのように楽しかったり、飛行機の横腹に女性の裸の絵が描かれそれが妙に艶かしく目に焼きついた事を今も鮮明に覚えています。恐れより色気だったのでしょうか?よく舞台や映画で使われたりする昭和天皇の玉音放送も、大人というのはラヂオを聴きながら泣いたり、うな垂れたりよくわからず変な感じがしたことを覚えています。食料事情は極端に悪く田舎へ米を買出す為につれられ、手袋の中に米を詰め、すし詰めの汽車にのり、駅で警官が来ると逃げ、魚を持ち帰るときお腹に巻いて持ち帰ったため、腹が冷えてしまい下痢をしてしまった事など辛さより心躍る出来事として記憶しています。考えてみればあれからずっと腸の弱い人生を送ってきたようです。                               

sengo1.jpgsengo2psd.jpg

進駐軍(米軍)がくれたチョコレート(多分あれはハーシー)のなんと甘かった事、バナナを最初に食べたとき「世の中にこんなおいしいものがあるのか」と感じたこと、母ではなく父が作ってくれた牛筋を煮込んだカレーライスは最大のご馳走であり、この年になっても好物でありつづけています。他方弁当のおかずはいつも塩鮭で鮭の味よりただただ塩の味がした。(今から考えるとそれでも恵まれていた)そのためか今もって好んで鮭を食べる事はありません。美味しいといわれるサーモンを食してもあの塩の味を思い出してしまうのです。学校の前の大阪城のお堀に年に何度か土座衛門(水死体)があがりました、俯いて揚るのは男性、上向いて揚るのは女性、理由はオチンチンの有る、無し、とその時皆は思っていました。父は高松で電車の運転手をしていたらしく、手先は器用で料理も上手く昔の写真を見る限りなかなかハンサムだったようです。 母は淡路島の出で貧しかった為小学校へもゆけず徳島へ売られ芸者になった様です。読み書き、そろばん、料理、裁縫、昭和の時代の女性のできることはまったくできない人で芸事と人あしらいに長けたひとでした。

年は母の方が年上で40過ぎてからの子供でもあり猫かわいがりの過ぎた母でありました。授業参観のときには濃い化粧と芸者特有の着物の着方で来るためそれが嫌で、学校から家庭への連絡事項は何時も破り捨てていました。

kitanozeronen.jpg

母方の祖父は映画「北の零年」に描かれている人形浄瑠璃の浄瑠璃師で竹本綱太夫という人だったようです。そのことと貧しかったこととがどんな因果関係にあったのかはよくわかりません。 金一性は母方の名前で淡路島に今も残っているようです。 母は私にたいして芸事を習わせたかったらしく三味線や歌、踊りを教えようとしていたようです。 成人になるまでそんな母が嫌いで家にいることの少ない生活をしていました。父は根っからの遊び人で母が働いている間も何処かへいつも遊び行っていたようです。その父は和歌山に愛人ができ戦争中でもあり子供の私はよくそこへ連れて行かれました。 彼女は優れた人でヤンチャな私をいろんな意味で矯正してくれたようにおもいます。電車に乗る時切符の御釣りを「結構です」と言うような子供の扱いは大変だったでしょう。和歌山、紀ノ川での子供でもバケツいっぱい採れるしじみ採りや、足を加太海岸に浸けていると足の裏に這入ってきた小さな鰈の感触は今も忘れることのない想い出です。

中学生になり性の意識が目覚めるとともに家の仕事も嫌で屈折した日々を送っていたように思います。悶々とした日々のはけ口はスポーツとしての野球、博打としての麻雀や鬱憤を晴らすわるさに注がれていたのでしょうか、 家のラヂオは野球の放送と「旅行けば、駿河の国に茶の香り・・・」広沢虎蔵の浪花節、エンタツ・アチャコの漫才 売春禁止法が施行され、家業の御茶屋は駄目になり生活に困るよ様になりました。 父は仕方なく料理上手を生かして、うどん屋を開き私もそれを手伝ったりするようになりました。「まいど おおきに」その言葉がなかなかいえなくてなんと辛かったことか。 

entatsu.jpg

 

<高校時代>

中学時代上位だった学校の成績は高校にはいって段々下がり始めました。授業は苦痛で楽しみは放課後のクラブ活動でした。新聞部、演劇部、山岳部、応援部そして自冶会、メンバーは、ほぼ同じで季節によって各部を渡り歩いていました。中学時代地区大会で優勝までした野球への情熱は才能の見切りと共になくなり、学校をサボっては便所の匂いのする映画館に潜り込んだりしていました。当時もぎりの人の目を翳めてタダで這入ることの出来る所をいくつか知っていました。新東宝、大映、松竹、日活、東映、東宝など邦画がほとんどで二本立ての映画館が多く、 一本のフイルムは複数の映画館で併用されその運搬手段は自転車で、フイルム未到着の為途中休憩が多かった時代でもありました。    嵐勘十郎の鞍馬天狗(なんと松島トモ子さんが杉作役で此の時出ているのです)、長谷川一夫の銭形平治、片岡千恵蔵の多羅尾伴内、市川歌右衛門の旗本退屈男、入江たか子の猫化け、それらは私の暗闇のヒーロー達でした。

kuramatengu.jpg

そんな私にとって掛け替えのない素晴らしい先生方に出会うことが出来ました。一人目は1年生の時の担任で小川先生  「純な心で」というのが先生の口癖で、誠実に生きる事の大切さを教えていただいた。お金に困っていることを知り家庭教師のアルバイトの紹介をしてくださったり、学校をサボって映画を見たり、演劇部の仕事で学校に泊まりこんで授業に出なかったりしても「時々は授業に出ろよ」としか言わなかったその声が今も耳に残っているのです。二人目は世界史の先生で2年生の担任でも在った中川先生  人はどの様に生きてゆけば良いのか、そのために何を学ぶべきか、共産主義者でもあった先生はマルキシズムについて手ほどきをしてくださいました。 マルクス、エンゲルス「共産党宣言」毛沢東「矛盾論、実践論」などの研究会を通じて多くの友人を得ることができました。中村進さん(吉本興業作家)三田順啓さん(旧Mitaコピスター社長)佐々木武さん(元日本医科歯科大学教授)それまでほとんど本を読まなかった私が進んで本を読むようになりました。 本屋、古本屋まわりが楽しみでした。 本箱は木製のみかん箱で、とても重宝したものでした。

kyousanto.gif

卒業后先生は演劇部の顧問にもなられ松田一二さん、(クリエイト大阪初代社長、故人)安藤利通さん、(大阪労音舞台監督アルバイト先輩)三田和代さん(元劇団四季)等とともに高校演劇コンクールに恐れ知らずにもオリジナル脚本をもって参加、舞台の面白さの魔力にとりつかれました。新制作座 真山美保「日本中が私の劇場」に心服。水品春樹「舞台監督入門」が当時の私のバイブルになりました。

三人目は杉原先生 授業を一度も受けた事が無く二年後輩の紹介で知り合った不思議な出会いの先生で、マルキシズムに囚われることなく、柔軟性のあるものの考え方、発想の転換の必要性を強く説かれた 星新一「ショート・ショート」 レイ・ブラッドベリー「華氏451度」「火星年代記」に夢中になってしまいました。その友人達とバンドの真似事をしたりもしましたが早々と挫折をしました。

kashi451.jpg

 

いろんな友達と同人雑誌も発刊 当時コピーの器械はなくガリ版印刷で字が下手な私も少しずつ読める字が書けるようになりました。 今ではその面影は無く私の書いた文字は判読不能のようです。    当時のガリ版印刷の技術は高く色街でもあった我が家には多色刷りの春本が何冊か存在しました。あれは何処にいってしまったのでしょうか?  中川先生からの年賀状は今も素晴らしいガリ版刷りで送られてきています。 個性的でありながら数量も達成できるアイテムはなかなかないものです。 クリエイト大阪の名刺や年賀状を今のスタイルにしたのにはこういった経験があったからなのでしょう。

春本といえば性に関する本は皆無で、ヴァンデベルデ「完全なる結婚」を学友が教室に持ち込んだ時は先生の注意を交代で反らしながら読みふけったものです。

create-nenga.jpg

 

「マスタベーションをすると頭が悪くなる」そんなことを疑うことなく皆信じていました。頭の中はセックスのことで溢れているのに初恋の人とは手を握ることもなく終わってしまいました。野球部の部員の数が足りなかった為 三年生の時、夏の高校野球大阪予選に5番、捕手として出場、投手の生島さん(関西大学から実業団)のレヴェルは高くその力でベスト8まで進んでしまいました。盥に洗濯板の時代ですからユニホームの洗濯は大変で「これで甲子園までゆくことになったらどうしようか」などと馬鹿なことを考えたものです。  バッティングマシーンもなく木製のバットでヘルメットもつけない時代の野球は投手が試合の命運の殆どを握っていたといえるでしょう。

その生島氏の家へはよく招かれビクターのS盤やコロンビアのL盤レコードを聞かせてもらいました。彼の家にはすでに手回しの蓄音機ではなく自動電気プレーヤがありとても羨ましかったものです。 その影響でラヂオから流れるアメリカンポップスを毎週聞くようになりました。グレンミラー、ペレスプラド、ダイナショア、アーサーキッド、ルイアームストロング・・・・そのうちに1分間78回転のSPレコードから45回転ドーナツ盤が出回るようにもなり 生田恵子というビクターの歌手のフアンになり梅田にあった北野劇場や難波の大阪劇場(大劇)の実演{映画に対して本人が出る場合こう呼んだ}へ足を運んだのが流行歌手の音楽会を観た最初の体験となりました。当時大阪には朝日学生音楽友の会と言う組織があり、音楽の授業の点数がクラシック音楽を聴いた感想をスクラップブックに記録することで評価されたため不本意ながら時々利用していました。

grennmiller.jpg

 

場所は中之島にあった朝日会館で(妹尾河童さんが当時勤務されていたらしい)辻久子、朝比奈隆、の名前を書き込んだ覚えがあります。  あまり好きではなったクラシックでしたが、ハイフェッツ「ツゴイネルワイゼン」、ボストンポップス「くるみ割り人形組曲」「ハンガリア舞曲」のEP盤を好んで聴いていたようでした。楽しい高校生活でしたが受験勉強は手に附かず一年浪人。  浪人中、貸本屋で借りた白土三平「忍者武芸帳」にほれ込みそれ以来長い間白土マニアでいました。

shirato.jpg

 

<大学時代と60年安保闘争>

中川先生の影響と末川博先生に憧れ、やっと立命館大学史学部に入学。 大学は60年安保闘争で、どの教室でも例外なく授業が始まるとリーダーと思しき人が教室を占拠し日本の現状と安保に関わる討論。といっても一方的に捲くし立てるアジテーションで自分たちの派閥の正当性を主張するだけ「我々は~・・・・」  そしてデモ行進。シュプレヒコール。 民主主義青年同盟(minnsei)、共産主義同盟(kyoudou)、革命的共産主義同盟(kakukyodo)社会主義青年同盟(syaseidou)、など各派閥の意見や理想の違いを理解することも出来ず内ゲバに消耗の毎日を過ごしていました。   

anpotousou.jpg

京都ニ条城脇の大学へ通っていたこともあり卒業後も高校の演劇部や社会科学研究会に顔をだしていました。放課後の学校放送で関西弁訛りの無い印象に残るアナウンスをよく耳にしました。福留功男さん(元日本テレビアナウンサー)このころから別格の存在だったようです。

社会科学研究会や演劇部の後輩の中にも在日朝鮮人の友人が何人もいました。結婚する為帰化した人。帰化をせず朝鮮籍のまま働いている人、夢と希望を持って北朝鮮に帰国した人、彼女に何度か手紙を書きましたが一度も返事は来ませんでした。 学生運動で消耗していたとはいえ、まだマルクス主義を信奉していた私は夫々の人に相談を受け、そこに生きる人々の複雑さや現実を理解せず生意気な意見を述べていました 「若かったからね」ではすまされなかったのではないかという心の痛みを、今も澱のように持ち続けているのです。 

 夜行列車に乗り東京へデモ行進で往復し帰ってすぐに、樺美智子さんが安保闘争で亡くなったことが白黒のTVのニュースで流れました。 誰はばかることなくあれほど泣いたことはいままでにはありません。 「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい・・・」西田佐知子

同じ後輩の中に恋人ができました。 資産家の娘でもあり思想上の問題もあって、二人が逢うことは友達の協力なくしては不可能でもありました。  絵の好きな人で、奈良の寺めぐりがデイトスポットの中心でした、仏像に興味を持つようになり土門拳の写真集に強い触発をうけました。 彼女は私にとってはじめての女性であり、それまでの永い葛藤からやっと解放されたのでした。  影絵も好きで仲間を集い、童謡「お山の杉の子」「汽車」の作品を幼稚園に持っていったりしました。藤城清治さんの作品に感動したのもこのころのことです。効果音や音楽の録音、再生は東京通信工業(現在のSONY)社製の1分間38回転のテープレコーダがかなり高価ではありましたが、学友で持っている人があり、借りて使用していました

onshikanreki1.jpg

 

日本は安保闘争を通じて社会主義の国になることを信じていましたが、世の中は何も無かったように闘争は終わり、人々は普通の生活にもどり、私たちは大きな疎外感にまみれていました。 映画 「灰とダイヤモンド」アンジェ・ワイダはそんな心に沁みこみました。大学に行く気力も無くし、山本周五郎の小説の中にだけ心のよりどころを得ていた私に

演劇部の後輩でもあった安藤さんが「大阪労音のアルバイトでもしてみませんか?」と声をかけてくださり舞台監督の道に入ることになりました。

最初の仕事は大阪毎日ホール、ラテンバンド「有馬徹とノーチェクバーナ」のサイドピン五色のカラーチェンジャーつきの器具でかなり緊張したこと、蛍光塗料のセットがラテンのリズムによく似合っていたことを昨日の事のように覚えています

syan-i-mo.jpg

大阪、東京労音共同製作 千田是也演出 ペギー葉山主演「劉三姐」は生まれて初めて観たミュージルで感動し「労音で仕事ができたらなぁ・・」と思い、 勤労者演劇協議会「労演」福田善之作、林光作曲 渡辺美佐子主演「真田風雲録」の<♪てんでかっこよく死にてえな・・>に涙し「いつか一緒に仕事が出来るようになれば・・」と夢を膨らませていました。 「劉三姐」の物語は2004年チャン・イーモウ監督によってスペクタクルミュージカルとして桂林で上演されたり、女子十二楽坊の楽曲で演奏されたり話題を呼んでいます。   そのころ、黒田益弘さん(SOGO企画社長)も同じ仲間として働いていました。アルバイトの報酬は想像以上に多く逼迫した経済状態を救ってくれました。両親は細々と仕事を続けていましたが大学の入学金や学費を出せる余裕はなく、母方の叔母に借金をし、奨学金と家庭教師のアルバイトでやりくりをしていた私にとってはありがたい事でもありました。その叔母に借金を棒引きにするから創価学会に入るように薦められ、反発から戸田城聖の著作を読み込んだことがありましたが、戦時中に戦争反対を唱えた数少ない人であった事や、民衆に対する深い愛情の評価はできても、教義に共鳴することはできませんでした

 

saraba.jpg

 

それより「男は強くなければ生きてゆけない、されど優しくなければ生きる資格はない」と書いたレイモンド・チャンドラーの言がその後の人生の道しるべとなりました。 「さらば、いとしき女よ」「長いお別れ」 <大阪労音時代>1963年大学を中退し大阪勤労者音楽協議会(大阪労音)に事務局企画課員として入局先輩に田川律さん(あやしい舞台監督著者)、広畑茂さん(SOGO企画会長)、黒須保雄さん(クロス企画社長)、中野実さん(元オリジナルコンフィデンス関西支社長)、藤井剛さん、同輩に村元武さん(初代プレイガイドジャーナル編集長)、林衛さん(元創樹社故人)木村聖哉さん(元話の特集、作家)など50人を超える所帯で、桜橋のサンケイ会館のなかに事務局をかまえていました。所得水準も低く、庶民の娯楽は映画ぐらいだったこの時代「良い音楽をより安く」のスローガンを掲げた労音は広く大衆に受け入れられ、当時大阪での会員は15万人を超える勢いで、フェスティバルホール、サンケイホール、毎日ホール、四天王寺会館、大手前会館、など毎日のように何処かでコンサートが行われ、それでも15万人の会員を一ヶ月で消化できずに月一回提供するコンサート=例会が二ヶ月にわたることもたびたびありました。詳しくは大阪労音10年史、15年史に記述されています。

 会員は、職場やグループでサークルを作りその中で代表者を選び、地域ごとの代表者で構成された運営委員会で労音全体の方針がきめられていましたが、例会企画の一つずつは事務局の企画会議で内容が検討されて実行にうつされていました。

15万人の会員はそれぞれ、A例会(クラシック)、B例会(実験的なもの)C例会(ポピュラー)のどれかに加入し、ABCとも毎月数本の例会が企画されていました。私はC例会担当でアルバイトから時間を空けることなく仕事をしていた為か、初仕事の記憶はまったく無く、アルバイト時代に比べて初任給がかなり安かった記憶を思い出すばかりです。 会員の大半はC例会員ではありましたが、入局時は何故か演歌、歌謡曲は取り上げられていませんでした。想像ではありますが、あの時代歌謡曲は一段低い物として位置づけられていたのではないでしょうか。 すくなくともクラシック音楽を志向する人々はポピュラー音楽を低俗な物として考えていた事は間違いない事実として何年にもわたって体験させられましたから地方の特質の一つとして、ほとんどの文化が東京発であることへの反発がありました。

rouon15.jpg

 

その結果全国労音統一企画の例会は極めて少なく「大阪発」のものを創り出すことを志していました。局員全員にその気概が満ち溢れ、大阪独自のものを作り出す為、夫々に既存の音楽関係者以外の人々との交流を広げようとしていました。 多くの作家、演出家、画家、芸術家、ジャーナリスト、そして音楽家がこの動きに賛同してくださったようです。企画局部員は、企画内容、スタッフ、キャストの決定、それに伴う予算化、参加会員数の予想と会場の確定、列車 乗り物の手配から宿泊などの制作業務と劇場打合せ、舞台監督、を一年に5~6本こなしていました。 其の上電話のやりとりでは解決できない事も多くFAXも無い時代、毎年数回、十時間近くかけての東京出張は極度の疲労を蓄積した反面、コンサートに関わる全てを学ぶ事ができ私にとって大きな財産になりました。  したがって助手は不可欠で多くのアルバイトを必要としました。  山田修さん(コア社長)明石さん(元昭和プロ)は其の時に助手を務めていただいた仲間です。仕事で疲れているにもかかわらず、麻雀の誘いは毎日の様にあり、仕事場の近くに雀荘は数多く、徹夜になると松島新地にあった旅館へゆくこともあり体のことを省みる事はまったくありませんでした。 思いおこせば企画局員全員が麻雀を嗜んでいたようです

60年代初頭専門業者としての音響会社はなく、劇場のハウスPAで全てを処理していました。因みにフルバンドのコンサートの場合、ピアノマイク1本、ベースマイク1本、トランペット4人、トロンボーン4人、サックス5人に対して1本の計3本で賄われることがほとんどで歌手はエレベーターマイクが主流でそのうちボーカルのコードハンドが使われるようになり、コード介錯は舞台監督の仕事の一つでもありました。

大道具は大阪舞台、浪速舞台、津村工芸、が制作していたがコンサートのセットという事もありバンド台に吊りもの少々で済ませる事が多く、地がすりが使われだしたのは1965年頃ではないか。それまで劇場の木目のままだったことから格段に視覚効果があがったのは照明家、今井直次さんの功績ではなかったかと思っています。地がすりの色は黒ではなくグレイが主流で先生の<シャーベット・トーン>と名称が付けられた照明に絶大な効果を発揮したものです。 朝倉摂さん、金森馨さん、高田次郎さん、板坂伸治さん,有賀二朗さんなど美術プランナーの起用に伴い大道具にたいする発注の拡大は、日本ステージを生む事になりました。 初代社長、山下栄次郎さんに教えていただいた大道具のいろはや、仕事の数々をいまも懐かしく想いだすこのごろです。 照明家は今井さん、はじめ「オーソドックスの」秋本道雄さん、「原色の」土山道郎さん、「パステルカラーの」喜田川信郎さん、「暗闇の魔術師」吉井澄夫さん達がその明かりに名称を付けられる活躍をされていました。

演出家には、砂田実さん、藤田敏雄さん、永六輔さん、関西では古川益雄さん、武智鉄二さん達が起用される事が多かったように思います。我々の担当するC例会では、それまでのビクター、コロンビア、キングなど各レコード会社専属の歌手合同のヒットパレードの形式ではなく、各歌手や演奏家のリサイタル形式が採られ、その力量を持つ人々が例会に取り上げられました。各例会ごとに会員の希望やコンサートの評価アンケートは既に実施されており、ペギー葉山、坂本九、岸洋子、越路吹雪、雪村いずみ、江利チエミ、ダークダックス、デュークエイセス、坂本スミ子、アイジョージ、東京キューバンボーイズ、中村八大トリオ、秋満義孝クアルテット、の方々は人気も高く、会員の支持を集めていました。

image1.jpg

 

美空ひばり例会への希望は何時も高いにもかかわらず、なかなか実現することができませんでした。 当時、歌謡曲世界とヤクザ社会の癒着が大きな障害になっていたからだと思われます。 孤高のジャーナリスト竹中労さんの尽力ではじめて大阪労音に「美空ひばり」が登場した時は大きな話題になりました。ジャーナリストでもあり同輩、木村聖哉著「竹中労・無頼の哀しみ」に詳しく語られています。 労音や私にとって、いずみたくさん<オールスタッフプロダクション>が与えた影響は絶大なものであったと思います。音楽家だけではなくプロデューサーとしても戦後の音楽シーンに多くの足跡を残されました。私個人も労音時代「園まりリサイタル」「いしだあゆみと田辺靖男」「九重祐三子とパラダイスキング」「いずみたくリサイタル」。クリエイト時代、ミュージカル「死神」、「俺たちは天使じゃない」、をはじめ「ピンキートキラーズ」「由紀さおりとタイム5」「広島平和音楽祭」「ヤマハ世界歌謡祭」などなど数限りなく、先生にささげる感謝と思い出は尽きません。 会社にのこる最も古い映像として「いずみたくリサイタル」がいまも残されています。

それまで働く人々の事情は考慮されていなかった開演時間は平日18時半、土曜18時、日曜14時、(13時)、18時(17時) 終演は遅くとも21時ごろまでと設定され、翌日も朝早くから働く人々を前提にした日本の上演スタイルが生み出されたと考えられます。

都市や農村が持つ地域性、季節、生活環境の変化などを考慮にいれた大胆な時間設定が、今問い直されているのではないか、と思うこのごろです

 

tengoku.jpg

 

私が関った例会の中でミュージカル「天国に一番近い島」は思い出深い作品でした。  原作 森村桂、演出 栗山昌良、脚本 佐藤信、舞台監督 土岐八夫、 主演 梓みちよ、ジェリー藤尾、上司の黒須さんとともに苦労の連続で、最初に依頼した脚本は期日が過ぎても出来上がらず、こまりはて栗山さんの弟子でもあった新進気鋭の佐藤さんに再依頼。出来たばかりの霞町<今の西麻布>自由劇場に日参しました。ミュージカルでもあり大作でもあったのでさすがに舞台監督の兼任はできず,青年座の金井さんの紹介で土岐さんに依頼、その人柄と仕事の優秀さに感心しました。 「可愛い女」「泥だらけのルビー」「劉三姐」「祇園祭」と続いた労音ミュージカルの伝統を受け継いだ作品には仕上がりませんでした。 この時代には既に4波程度のワイアレスマイクが使われていましたし,効果音から発展した音響の専門家の人々が活躍し始めていました。後年クリエイト大阪の社員旅行でその舞台となったニューカレドニアに行く機会があり感慨もひとしおであったことを想いだします。

terayama.jpg

 

ジャニーズミュージカル「フォーリーブス物語」山田卓演出、振付 初日近くになって急遽舞台監督に指名され、売出し中の<ジャニーズ>が解散し次の新しいグループ<フォーリーブス>が生まれてゆく物語で、メリー喜田川さんとのコミニケイションも円滑で上質の作品に仕上がり、例会として評価されたのではないか。 ジャニーズ全盛の昨今 喜田川さん兄妹の嗅覚ともいえる先見性を伺い知る事ができるようです。寺山修司作・演出「田辺昭知とザ・スパイダース」 この公演も局員の都合で、一週間前に担当を言い渡され、ガリ版ずりの台本を頼りに森之宮の青少年ホールで舞台稽古兼初日を迎えました。第1部はグループサウンズのヒットソングで第2部が寺山さん作のモノミュージカルという構成で、日本ステージへの道具発注も遅れ、舞台にセットを飾った時に色絵の具が乾ききらず、場面転換も未決定でとりあえず舞台稽古をはじめることになり、何場面か進行したあとにセット変更が演出家より出され元へ戻る事が繰り返されました。 堺正章さんや井上順さんも今ほど芸達者でもなく右往左往し、スタッフは手順が組めず段取り、調整のため時間待ちが多くなりました。その時客席の演出家は競馬新聞を読みふけっている状態で、頭に血がのぼり食って掛り上司の広畑さんに抑えられた苦い思い出の例会でした。後年、渋谷公会堂での天井桟敷公演で二階客席に火を付け、階下に投げ落とす演出や、真っ暗な舞台で芝居が進行する鬼才ぶりを見るに及んで、舞台に対する自分の常識が壊されていくのを、体験させられました。 唐十郎、鈴木忠志、佐藤信、それまでの演劇とは違う物を求める人々が世間でアングラ<アンダーグラウンド>と呼ばれ活躍を始めていました。「大阪労音JAZZフェスティバル」 構成、演出 古川益雄、音楽監督 中澤寿志?編曲中川晶、美術 山下栄次郎、 音響 吉田悦造<MBS>、舞台監督 柴田純響、(多分このスタッフ構成だったと記憶している)は年に一度難波にあった大阪府立体育会館で開催され、MBSジャズオーケストラ、アロージャズオーケストラ、ファインメーツ、の関西3大ビッグバンドが合同演奏をすることが売り物の例会で、笈田敏夫、宝とも子、坂本スミ子等の歌手、や古谷充、松本英彦、ジョージ川口、秋満敏子、らソリスト、吉本、松竹芸能の漫才などの色物、司会は安達治彦。現在のアリーナ公演の原型でその迫力は今も耳に残っています。その音響技術はテレビ局の力に頼る以外になくMBS大阪毎日放送の技術と機材が投入されていました。この時の舞台監督柴田さんは、ポピュラー音楽の舞台監督として草分け的存在ではなかったかと思います。黒田さん、安藤さん、私たちは柴田さんの助手として働き仕事の楽しさを味わうことの出来た例会でした。古川益雄さん、柴田純響さんについては、季刊雑誌「雲遊天下」連載 林信夫「舞台稼業列伝」に詳しい

yoshinaga.jpgsakamoto.jpg

 

1962年「キューポラのある街」で<ブルーリボン主演女優賞>を獲得した吉永小百合さんの初リサイタルが65年大阪フェスティバルホールで開かれ制作、舞台監督として参加、構成、演出 石田建一郎(大阪朝日放送)音楽監督、吉田正、参加希望の会員は多く逆に吉永さんのスケジュールに余裕はなく5公演程度であったと記憶しています。

第一部<寒い朝、から始まるヒットパレード>第二部<ピアノ独奏>第三部モノミュージカル<天満橋から>といった構成で、緞帳を上げる前の客席の熱気は、半世紀期にわたる舞台監督生活で未だ超える事のない凄さを感じたものでした。 当時ポピュラー例会でのピアノはヤマハ製の物しか借りる事が出来なかった時に、彼女の独奏にスタィンウエイが借りられたのは吉永さんの人気の凄さを物語るエピソードとして残されています。 

リハーサルや打合せで上京した折、ビクターの深井静史さん等と吉田先生に銀座のクラブに始めて招待され、ドギマギし、かってない程緊張した記憶として今も残っています。 私にとってこの例会は、吉永小百合リサイタル<ビクターSJV・213>LP盤として残された最初のものとなりました。 三浦哲郎原作、福田善之脚色、観世栄夫演出、「忍ぶ川」や、藤田敏雄構成、演出、いずみたく音楽、などの公演に参加をさせて頂きましたが、名古屋公演の時、母が危篤になり、撤去を任せ大阪に戻った出来事もあり、自分史上欠かせない仕事となりました。

 「坂本九リサイタル」構成演出、永六輔、 音楽、いずみたく、新しいセットは一切作らずフェスティバルホールの多くの迫機構だけで構成された美術プランは新鮮で、強い印象が残りました。坂本九さんの口上と見得に、つけ打ちが必要で永さんに懇切、丁寧に指導されたことは、有難くも、懐かしい思い出です。 永さんといえば、以前、サンケイホールの「デューク・エイセス」例会で、構成、演出、舞台監督、司会を一人でこなしておられた時、客席から「引っ込めー」の声に、舞台から引っ込み、そのまま東京に帰ってしまったエピソードの持ち主でもありながら、その才気は労音に留まらず日本の音楽シーンにおおくの功績を果たされた事はいうまでもありません。

 「島倉千代子リサイタル」 このころ大阪労音では、歌謡曲例会が始まり、第二部で吉永淳一作、松永良男太演出、山下毅雄音楽、有賀二郎美術、岩崎玲児照明、日舞ミュージカル「鶴の笛」を上演、はじめてのお付き合いでのスタッフにも拘らずコミュニケーションもよく、満足のいく作品に仕上がりました。 島倉さんは当時阪神タイガースの藤本選手夫人でもあり、稽古は全て大阪でおこなわれ、その勉強熱心さと、スタッフに対する心使いの細やかさに心打たれたものでした。外国から招聘した例会も担当し、カンツオーネのミルバ、でナポリの街のスライドを作ったり、映画「愛情物語」で有名になったカーメン・キャバレロでは淀川長治さんに解説をお願いしたりしたこともありました。 「雪村いづみリサイタル」構成、演出、藤田敏雄。音楽監督、前田憲男。美術、照明

今井直次。先輩でもあった田川さん担当の舞台で、アメリカからフォーク・ソングが入ってきたことをとりいれ、 名作「約束」をも生んだ構成は見事であり、今井さんの照明、前田憲男、猪俣猛、澤田駿吾、さんたちの演奏も素晴らしく、今もって大阪労音が制作したリサイタル形式のNO1であると思っています。

 フォークソングといえばまだ学生でもあり日本のジョーン・バエズと言われた森山良子さんを例会に取り上げるべく、田川さんと上京、話はまとまらず不調に終わった経験があり、森山さんは資本家の娘だから「音協はともかく、労音は無理だよね」といった負け惜しみを言っていた覚えがあります。当時音楽鑑賞組織は成立順に1)労音=労働組合を中心とした組織。2)音協=労音に対抗し経営者が資金を出し合って作った組織。3)民音=創価学会が作った組織。がありお互い凌ぎをけずっていました。偉大なる失敗作として思い出される例会は「西田佐知子リサイタル」で構成、藤田敏雄 演出、砂田実。音楽、いづみたく、で歌謡曲の前奏、間奏、後奏を極端に排除し、シャンソンのヴァースを取り入れたり、意欲に溢れたステージが期待された。結果はカタルシスのない舞台となり観客の不満はあふれ、担当者でなかった私もその対応にかりだされる始末で、さじ加減の難しさを思い知らされました。

thepeanuts.jpg

大阪労音時代だったのか、やめてからの仕事だったか、はっきりしない作品のなかに思い出深い舞台があります。黒須保雄さんの制作で、五木寛之 作、増見利清 演出、ペギー葉山主演ミュージカル「傷だらけのギター」で先日(2006年7月17日)NHKラヂオの番組で五木さん自身が語っておられるのを聞き、小ぶりながら味わい深い作品に仕上がり、東京のサンケイ会館の公演も参加したことを懐かしく想いだしました。そんな中、「ザ・ピーナッツ」のコンサートで彼女たちのヒットソングであった「ウナセラディ・東京」の、<ウナセラディが民族的でない>との馬鹿馬鹿しいクレームが運営委員会から出される時代を労音は迎えようとしていました。   上司であった薬師寺春雄さんの指導力、や事務局組織のあり方など後年クリエイト大阪を運営するうえで勉強になる事も多く、楽しい仕事でもあり素敵な仲間といられた反面、労働加重と不摂生のため一回目の胃潰瘍で休職を余儀なくされました。1968年生活の向上、テレビの普及、レジャーの多角化が進みその影響を労音も受けないわけは無く、会員の減少が始まっていました。先輩でもあった田川さんはすでに退職し東京で雑誌「ニューミュジックマガジン」の編集に加わり、髪を長くのばしヒッピーを実践していました。 あまりに巨大化した組織のため、例会が会員の意思を実現できていない思いが強く、小さな地域で構成される、小さな例会をやりたい旨の希望を申し入れるも聞き入れられず、同時に労音を休職していることを聞きつけた高校時代の学友でもあった北畑文夫さんから既に流行はじめていたボーリング場の経営を破格の条件で「一緒にやらないか」との話もあり、既に結婚し、二人の娘もさずかり生活の必要と、舞台への未練断ちがたく、飲めない酒を飲んだり、<ピーター・ポールアンドマリー>や<ジョーン・バエズ>のLPレコードを聴きながら思い悩む日々をすごしました。大阪労音をモデルに書かれた山崎豊子の小説「仮装集団」は誇張があるとはいえ興味深い小説です。

 kasoushuudan.jpg

<ボウリング場時代> 

大阪と京都の間にある枚方市の田んぼのなかに新しいボーリング場が建設され、当時広告代理店「万年社」に勤め、高校時代の友人でもあった松田一二さん(故人)が営業部長、私は経理、総務部長として新しい職場で働きはじめました。 ボーリングはブームで一時間~二時間待ちは当たり前、24時間営業で金庫のなかに札束が唸っていることを、初めて体験しました。  会社経営、経理、資金繰り、銀行との折衝、税務など全て初めての経験で、北畑さんの指導と我慢がなければ勤まらなかったのではないかと思っています。

「想い」だけでは生きてゆけない現実への対処方法を此処で学ぶ事ができたのは、それからの人生にとって掛け替えのないことでした。 金銭的には労音時代に比べると比較にならないほど楽になりましたが、精神的には落ち込むことの多い生活になっていました。

balling.jpg

たまたま大阪労音「岸洋子リサイタル」藤田敏雄、構成・演出、前田憲男、音楽を観る機会があり、関西弁で言う<さぶいぼが出る>=毛穴がたつ感動をうけ、「♪希望という名のあなたを尋ねて~」の希望は私にとって「舞台への回帰」であることを知らされました。その岸さんが膠原病で亡くなった時には、自分の体の何所かが無くなってしまった思いがしました。田中聖建さん<前田憲男マネージメント>、日根野順子さん<村田太マネージメント>の二人は岸音楽事務所の社員でもあり長いお付き合いになりました。

 kishiyoko.jpg

そんな時、ボウリング場へ佐藤信さんから連絡があり、自由劇場が演劇センター68/70として活動をはじめ、トラック2台が前後を引き合う移動テント劇場<黒テント>全国公演の大阪公演をプロデュースしてもらえないかとの打診があり、既に労音を退局していた村元武さん=URCレコード、<関西フォークの中心的存在の事務所(音楽舎)=高石ともや、岡林信康、西岡たかしと五つの赤い風船、中川五郎と関連するインディーズレコード会社>に相談をもちかけ、大阪労演事務局員の大久保勝子さん、中川五郎さんのマネージャーでもあった山田修さん、<コア社長>、大阪芸大の谷口博昭さん<クリエイト大阪現副社長>、大阪学芸大学の大橋誠仁さん<現ピーカンパニー社長>、福岡風太さん<春一番主宰者>大槻鶴彦さん、<読売テレビ、故人>、安藤利通さん<照明家>等と会議を重ね、「テントヘテントから」と名づけた機関誌を発行し、東京からの演劇公演を実現することだけに留まっていた現状の打破を模索し、地元関西の表現者を「黒テント」に参加させようとの意図から、岡林信康、はっぴいえんど、ザ・ディラン、加川良、高田渡らのフォークソングや、関西の劇団修羅の会、糸川燿史とヒップド・ヒップによる写真展、音楽映画上映など日替わりによる演目で、大阪城公園を軸に斎藤憐さん、山本清多さん、佐藤信さん、吉田日出子さん、斉藤晴彦さん、新井純さん、安田南さん、加藤直さん、らによる「翼を燃やす天使たちの舞踏」十回公演を果たしました。

image7.jpg

黒テントのトラックはおんぼろで、右にハンドルが切れない車で、苦労したり、ゼネレーターが調子悪く、大阪城の電信柱から盗み電気をしたり、大阪芸大では学校側が校内立ち入りを拒否し、紛争になったり、ポスターの街張りで警官に追われたり、金も無くコンビニも無い時代、食事や宿は分宿で凌いだり、苦労話に困る事はありませんでしたが、心躍る日々でもありました。 糸川燿史写真集「グッバイ・ザ・ディランⅡ 歌が駆けぬけた!69-74」にあの頃がいっぱいつまっています。

kurotentofolk1.jpg

60~70年代初頭マスコミ、新聞はアンダーグラウンドとみなされるものには見向きもせず、唯一プレイガイドジャーナルの前身「月刊プレイガイド」だけが趣旨に賛同、広報、宣伝で大きな役割を果たしてくれました。 丸山尚著 「ミニコミ戦後史」三一書房には<七一年六月タウン情報誌のトップをきって「プレイガイドジャーナル」が大阪で創刊された>と表記されているのには訂正、加筆が必要であろうとおもわれます。この活動が縁で、音楽舎、秦政明さんと竹中労さんでピート・シガーを招聘し、「ウッドストック」に対抗して「環太平洋フォークフェスティバル」を開こうという企画が立てられ、竹中労さんが参加を要請されましたが実りませんでした。総務・経理部長の役職のまま、自分の我侭を許容していただいた北畑さんの度量には、今も、ただただ感謝する他はありません。

pugajasoukan.jpg

 

 <プレイガイドジャーナル時代> 

前述の「月刊プレイガイド」が創刊8ヶ月で経営難から廃刊の危機に陥り、村元さんの所に発行者から話が持ち込まれ、中野実さん<労音時代の先輩、当時オリジナルコンフィデンス関西支社長>、金一の三人でその意志を受け継ぐことになりました。 その想いを初代編集長であった村元さんは次のように語っています。

私たちがいま発刊しようとする月刊「プレイガイドジャーナル」は、まぎれもなくそのスタートに昨年3月に源を発した「月刊プレイガイド」が存在します。友人たちは十ヶ月にわたり、常に新鮮な多くの情報を、確かな選択によって掲載し、しかし限界をこえた活動量の積み重ねの跡に無残にも崩壊するに至ったのでした。 それを彼らがあえて<休刊>にした時点より、誰かが、ではなく誰もが、自己のうちにこの小冊子の錘りを限りなく深く降ろし得たものは誰もが、この友人たちの志を引き継ぐ事ができたといえます。同じように私たちの上にも、この半年間、いわば重く空は傾いたままでした。 

そして私たちは今日、友人たちの見果てぬ夢にもう一度たちむかおうと決意します。その困難と栄光にうちふるえながら。 思えばその困難は限りなく大きい。毎月数百件にわたる取材とやたらにかかる人手、その上雑誌の売り上げなんてたかが知れているし、定価は固定され、売るのは月のうち初めの一週間がせいぜいなのです。休刊時一万部近く発行していたとしても、大資本が見向きもしないのは、わかります。決して儲かるしろものではないからです。

私たちにしたところで、万全の計画なんて立とうはずがないし、根本的には依然、なにも解決していません。 しかし、私たちがこの仕事を楽観視しているとすれば、それは次のような理由からです。 

私たちがやれることはたかだか、友人たちが暗闇の中で無念にも踵を返した地点に、とりあえずちっぽけなベースキャンプを張る事ぐらいだからです。そしていずれにしてもこのキャンプよりさらなる困難に向けて一点を踏み出すのは、私たち、私とあなたなのですし、まして、その困難と栄光とを独占しようなんてことも考えてないからです。 

もちろん私の役割、責任については決して回避するわけではありませんし、休刊にいたった最大の原因である経営的側面についても、まずしっかり克服するよう努力します。そして、加えて読者、関係者の皆様方のご指導、ご協力を切にお願いするしだいです。                  

―中略―

マスコミなどから無視され、こぼれおち、評価基準もないままに決して人々の眼にふれず闇の中にうごめく表現の試み、いわゆる<アングラ><ミニコミ><マイナー>などと呼ばれるもののすべて。 それらはあまりにも既成秩序からはみで、しばしば危険であり、猥雑であったりします。又、それらは既成の表現を激しく否定し、あらゆる表現が商品化されるなかで、かたくなに孤塁を守っています。 これら無名の表現を支持し、それらの情報を最大限掲載することぬきにしては、私たちの仕事の意味はありません。

なぜなら「プレイガイドジャーナル」も本質的に映画は?演劇は?音楽は?と問い続けている雑誌であるし、とりもなおさず私たちの基本的な姿勢でもあるからです。

 pugajakiji1.jpg

 <プレイガイドジャーナル1971年 創刊7月号 編集後記>

71年7月創刊当時、事務所は谷町六丁目、木造ビルの三階でメンバーは、編集長の村元武はURCレコードを退社し専任で有給、安藤利通、大槻鶴彦、山田修、金一浩司、啓子、等とまだ学生だった、おぎのえんぞう、田中久美子(現玉虫豊夫人)谷口博昭、大橋誠仁、大橋孝子(現誠仁夫人)、豊山愛子、山口由美子(三代目編集長。二代目編集長林信夫は創刊後まもなくの参加)等は無給で、取材した内容にそって印字した文字を文脈ごとにハサミで切り、糊で台紙に貼りこんで1ページずつ原紙を作る手間のかかる作業が、毎月くりかえされていました。手間がかかることで人が集り、話し合いが始まり、アイディアが生まれ、新しい出会いを生む。 今や個人単位の分業でより早く、美しく、創る事が可能になりましたが、その代償として間違いなく何かが失われてしまいました。 創刊に重なるように早稲田小劇場「劇的なるものをめぐって」「マッチ売りの少女」公演が大阪でおこなわれ労演事務局の大久保勝子さんの紹介で河田蜻雄夫さん、白石加代子さん、吉行和子さん、等とともに河田さん(SCアライアンス、サウンドクラフト)と一緒に仕事ができる最初の機会になりました。 八月には中津川の「全日本フォークジャンボリー」から伊勢の津、ヤマハ合歓の郷、和歌山紀ノ川上流、まで、何時参加しても、ドロップアウトしても自由な、黒テント「少年、少女漂流記」を佐藤信さんの企画で制作担当として参加したものの、準備段階がおわり実施の時、扁桃腺で高熱と声が出せない状態になり、ドクターストップで山田修さんに代行を依頼、主旨どうり合歓の郷のみの参加におわりましたが、胸のときめきを忘れられない催しとなりました。

syounensyoujo.jpg

このころにはさすがに北畑さんの温情に甘えるわけにもいかずボウリング場を退社しました。

1972年 プレイガイドジャーナルは経営的側面について覚悟はしていたものの、広告はあつまらず、本屋には並べられたがなかなか売れず、情報も容易に集らず、創刊号編集後記の予言どうりの状態に陥り、蓄えていた個人資産も予想をはるかに超える速さで無くなりました。 雑誌で皆が食べて行けるわけも無く、他でお金を稼ぐ方法として舞台の仕事や、テレビの仕事で稼いだお金の10%を雑誌や事務所の維持に投入することを決め、雑誌以外の仕事が増えてをちらに専任するメンバーも生まれ、その受け皿としてクリエイト大阪が設立される事になりました。72年はじめにボウリング場を退社していた松田一二さんが初代社長になり、舞台監督チーム<金一、山田、谷口、荻野、関口、大橋>は走り始めた新幹線にのり東京へ出かけ、旅公演で大阪を離れる事が多くなってきました。

10%はクリエイト大阪設立と同時にその維持にまわされ、一方プレイガイドジャーナル編集に関する人達の貴重な生活手段として仕事は続いたが、世の中のプレイガイドジャーナルに対する認知は、新たな雑誌編集の人材<林信夫さんたち>を必要とし、組織の分化が始まっていました。

プレイガイドジャーナル編集後記にその時代の息使いが感じられます。

l おぎのえんぞうと山田修はポスターの街張りで深夜、曽根崎警察署警官とおっかけっこのすえ逮捕された。逃げ出さなけ

 れば挨拶程度ですんだものを。

lいづみたくリサイタルの舞台監督に金一浩司、山田修、谷口博昭がつく。死の行軍

l  安藤利通は劇団二月の照明について約二ヶ月間小学校まわり。その方面でプレイガイドジャーナルをだいぶ売り込んだ。

 <72年4月号>

l  仕事の方はMBSサウンド5を松田一二、谷口博昭、ピンキーのミュージカル「死神」の舞台監督を金一浩司が、劇団「変身」

  マネージメントを大橋誠仁が、そして演劇センター68/71の担当は林信夫とえんぞうになります   <72年5月号>

l 演劇センター68/71の担当林信夫とえんぞうは安井博文の運転する車で東京視察九日初日の公演と特集の取材とモロモ

  ロを見て帰った。最近好調の人たち。

l  ところが、その東京で悪戦苦闘しているのが金一浩司、安藤利通、山田修、大橋誠仁の4人。大型ミュージカル「死神」の

  舞監で初日の25日まで夜も眠られない。   <72年6月号>

                                ― つづく ―

 

2009/10/13 16:30:01