舞台監督にインタビュー

舞台監督の生の声をお届けします。

「舞台監督の仕事ってどんなことをするんですか?」 説明するのはなかなか難しい…が一番多く、また必要な質問だと思う。 「なんでも屋」的な部分を多く含んでいる舞台監督の仕事を大雑把に説明すると、3段階になる。

1.クライアントに会いに行き、話しを聞く。要望をイメージ化したり文章にしたりして「実現への設計図」を作る。
2.スケジュール、人員の手配、場所の手配、安全対策など・・・必要な人・場所・物など全てをもれなくチェックして準備する。
3.本番当日、設計図どおりに進行するように指示を出し、ハプニングに臨機応変に対応しながら危機を回避してクライアントの要望の実現をする。

・・・と説明しても、なかなかわかりづらい。 なので、「説明をする」のではなく、別の切り口から「歩み寄って」いただけないだろうかと考えました。 この仕事していて、嬉しかったこと、辛かったこと、面白かったことなど 生の声を聞いていただけたら・・・ そういう訳で、連載スタートとあいなりました。

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クリエイト大阪創立メンバー 斎木信太朗にインタビュー

クリエイト大阪創立メンバー 斎木信太朗にインタビュー

舞台美術家、舞台監督、そして弊社のグラフィックデザインも担当している斎木氏、学生時代の

出来事から、いままで携わった作品など独自の視線で語って頂きました。

 

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金一 斎木さんがクリエイトに来た動機はいろんな話があるけど

斎木 金一さんと初めてお会いしたのは、憶えていらっしゃらないと思いますが、

学生時代に演出部の仕事をしていた時でした。

その前は照明のアルバイトなんかしていたんですが、5月舎というのがございましたでしょ。

そのプロデュース公演のときです。

金一 5月舎というのは福田善之さん、立木定彦さん、朝倉摂さん、だっけ

斎木 それは立動舎

金一 あそうか、5月舎というのは数少なかったプロデューサーシステムだった・・

斎木 なんとかエンザブロウだったかな

金一 本田延三郎さんだ

岡野 ゴガツシャというのはサツキの五月?・・・

斎木 そうそう、井上ひさしさんの作品とか手掛けていたんですよ、

その時の舞台監督が松坂さんだったんですよ

金一 哲生

斎木 そうそう、たぶん西武劇場のアーノルドウェスカー作、木村光一演出の調理場だったと

思いますが、金一さんが仕込みの手伝いにいらしていて、その時に松坂さんから

「あの黒っぽい人が金一さんだよ」って・・・

金一 それは何年のころ・・・俺は松坂哲生を知ったのはジーザスの後やから・・

斎木 1974年とか75年とかかな

金一 1973年がジーザスの初演だからそんなもんか・・・

斎木 凄い舞台監督なんだよって紹介されて

金一 松坂さんに

斎木 そう、その時はそのくらいでした。そもそもなんで演出部かというと、

学生時代からデザインをやろうと思っていて、

最初はグラフィックをやろうと思っていたんだけれども、

いわゆる純粋な絵画とかじゃなくてデザインとかの仕事に興味を持っていて、中学の頃からレ

タリングとか勉強していたし。高校出て上野の国立を受けたんだけど、ま、意見が合わずに

2回とも落ちて、家の環境とかも影響してたのか、浪人している間に勉強もせずに暇に任せて

映画だとか演劇だとか観ているうちにグラフィックよりも舞台美術の方が面白いかもしれない

なと思ったんですよね。

   その時にたとえば阿部公房スタジオの作品とか観に行って、

リアルな飾りでなくても空間が面白く創れる、というのが面白いと思ったし。

   従兄が印刷会社の凸版に勤めていて、その中に広告代理店みたいな部門があって、

電通や博報堂より小さいけれども、そこでADをやりつつ個人事務所を持っていてそこで

アルバイトをしていたわけです。

   そしたら「舞台美術なんて金にはならないし体壊すから絶対やめろ」なんて皆から言われたり

したんだけれども、でも、ま、

ゆくゆくはどうなるか解らないけれども舞台美術に手を付けるのも面白いかなと思って、

そこで4年制の大学なんかもういいや、学校なんかどこでも良くて、そこで逢った人とか、

知り合った人とか、先生とかが良ければいいや、と思い、戦前から純粋にアカデミックな学校

と言う事で文化学院というのが御茶ノ水あったんです。

そこは浪人中から講演会なんかあったりすると行ったりしていて良い場所だなと

思っていたんです。行ってみたらゆるくてダメだったんですけどね。

金一 それは何処にあるの

斎木 駿河台の方だけど今はBS11が入っている、学校経営が厳しくなって、それでビックカメラ系列に

売り渡して、それでBS11が入ったらしいのかな。

   ま、その学校で演劇を多少は学ぶのです、そこにいた先生というのが学習院を出てフランス文学を

   やっていたけれど、わりとフランス演劇をやっていて自分も翻訳したり演出したりしている

利光哲夫さんという人で、その方がNLTなんかと付き合いがあったたんで

朝倉摂さんとも繋がりがあったんですよ。それで摂さんを紹介するよ。

て言われたけれどその時はそのままでした。

   舞台の事を学ぶのだけれども、そういったものは学校内で収まらないで、ただの労働力といえば

すぐに来いと小さい劇団なんかだと言われるわけで、あっちこっち呼ばれて知り合いとか増えて

いったりとかして、それで大道具とかは直ぐになれなくて、

でも照明のアルバイトとかは直ぐにできたんですよね。

金一 あ、わかる

斎木 で、自分は美術をやるのだけれど照明を学ぶのも大事なことだと思って、共立のアルバイトで

スタジアムなんかも行ったり、昔の俳優座のオートなんかもやったりしましたしね。

*(オート、オートトランス、現在の半導体を使った調光装置ではなく

トランスで電圧を制御する大きな機械仕掛けの調光装置)

   そこで照明とかやっているときに立動舎系のときに立木さんが照明を

やっていらしたじゃないですか、そこで摂さんと会ったかもしれない。

   「夢の渡り鳥」なんかは仕込みとピンだけで行っているんですよ。横浜の青少年ホール。

あの丸い会場、そこでアークピンを焚いていました。

岡野 それは凄い、それで五月舎というのは制作会社なんですか。

   *五月舎代表作品 井上ひさし作「藪原検行」「雨」

斎木 制作会社なんだけれども井上ひさしさんの作品とか

金一 本多延三郎さんという人がプロデューサーでいろんなスタッフを集めて作った会社だよね。

いろんなところからお金を集めてきて芝居を作ることを職業としていた。

斎木 だから劇団制度じゃなくてその都度その都度お金もスタッフも集めてきて創ってた

金一 立動舎とういうのはちょっと違っていて

斎木 あれは皆の税金対策だと言われていたよね

金一 福田善彦さんという劇作家、立木定彦さん照明、朝倉摂さんが美術、あと・・・

斎木 あと吉行和子さん

金一 あそう吉行和子さん、それらが立動舎というのを作った

斎木 大きな公演ではなく割と小さいのを作っていた、実験的なのも多かったですね。

金一 当時、沢竜二さんかな、大衆演劇が面白いというので、いわゆる新劇でもなく商業演劇でもない。

斎木 好きなことやってたていう感じだよね

金一 そういうもので面白いものが出来ないかと言う事で、旅芝居は歌もあり笑いもあり涙もあり、

そんなものをやっていたのかな。

斎木 でもメイン所は錚々たるメンバーだったからほっぽとかれてはいなかったですね、

一目置かれていたというような感じですね。

金一 例えば長山藍子さんとか藤田弓子さん、それと誰だ

斎木 ピーター、竹邑類さんが振付でいたり

金一 あと沢竜二さん、吉行和子さん、あと内山さんかな

斎木 福田さんの流れの役者とか、でもいろんなところから集まっていた

   アングラとか違うんだけれども、体制的なことでの流れに沿ってないところで好きなことをやる。

金一 なんか、みんなで名前を付けて一人の責任でなく、何人かでやろうとか流行でもあったよね。

たとえば睦月の会というのがある、いずみたく、藤田敏雄さん、西村功さんなんだよ、

つまり自分たちでやるミュージカルをその会でやるというので、

私たちに配られる台本には睦月の会、たとえば「俺たちは天使じゃない」とかなっているわけ。

岡野 それはオールスタッフではなかったんですか

金一 実質は自分たちでは実務などできる能力はなく

斎木 発起人だけだからね、制作現場は丸投げなわけ

金一 つまり御神輿みたいなものをつくる・・斎木さんのいう税金対策だかなんか分かりませんよ、

こないだの大塚さんのインタビューじゃないけどオールスタッフも物を作っているときは

めちゃくちゃのようにお金が入ったわけじゃないですか。それでエンタープライズみたいなのは

大塚さんなんかは何もやることが無くて船の管理をしていたこともあったりして。

ま、あっちこっちでバブルを迎えつつあったりして。

   ちゃんと本田延三郎さんのようにプロデュースしたい方は何人かいらっしゃって、

例えば阿部さんとかのグループもあった。

斎木 五月舎で何本かやったんだけれどもその時の一本の舞台監督が三田村晴彦さんだったんですね、

「たいこどんどん」という井上ひさしさんの新作で昔の東横劇場で、

それは演出部で付いたんだけれども、あとはピンでついたのがテネシーウィリアムズの

「バラの刺青」というのを清川虹子さんでやったんですよ、それは福田さんの演出で、

金一 バートランカスターかなんかで映画になったよね

斎木 なりましたね

斎木 それはピンでついた、そのときも演出部に舞台監督じゃなかったけど三田村さんがいたりとか、

それと田村さんがいたんですよ

金一 田村道代さんのほう?

斎木 大橋さんなんかとよくやっていた、田村正美っていってたかな

金一 ああ、大橋さんにいうとちび田村ってやつね

斎木 そうかな、その方と知り合になったりして、その流れでクリエイトの仕事をするようになる、

つまり田村さんが大橋さんを知っているからということでね。

   こっちが学校を卒業する前に田村さんから大橋さんがこんどやる仕事で松島トモ子さんの

リサイタルがある。

金一 ええ

斎木 それについて僕は初めて大橋さんと会ったんですよね。それは阿部事務所の仕事なんですよ。

ABCホールで。

金一 その阿部さんというのはゼネラルスタッフの阿部さんね

斎木 元ね

金一 それはその劇団四季が日生劇場を作って越路さんのミュージカルをやったり、

そとの仕事をやったり、オールスタッフの向こうを張ったりという言い方はちょっと変だけど、

ゼネラルスタッフというのを作って、一時はですねここ青山から乃木坂にむかった左側のところに

新和ビルというのがあったんですよ、そこにゼネラルスタッフの事務所があったんですよ。

斎木 まだ劇団四季がキャッツをやる前ね

金一 メインところは越路さんで設けたり

斎木 その後ユーミンがあったんじゃないですか

金一 あそうそう、大橋さんのユーミンの最初の口ききが阿部さんだったよね。

斎木 田村さんが最初にやっていたからね

岡野 大橋さんのインタビューの時に出てきましたよね、

田村さんが忙しくなって大橋さんに仕事をふったという話

斎木 たぶん能力的には大橋さんのほうがあったかもしれないね

金一 ていうか口の利き方がお上手だったとはいえる

斎木 だからクリエイトにはまだ入っていないけれどもクリエイトの仕事をしたの

は松島トモ子さんだったんですよ、ABCホールで。それで青井陽二さんが本を書けなくて・・

相手役が飯野おさみさんで

金一 ああ、飯野おさみさんというのはジャニーズですよ

斎木 ジャニーズの一番最初のアイドルグループの一人、あおい輝彦さんなんかと一緒だった

金一 その後にフォーリーブスとかが出てくるんだよね

斎木 その飯野おさみさんが相手役だった、当時トンコさんと付き合っていたから稽古場によく来ていた。

金一 飯野おさみさんは後にジャニーズをやめて劇団四季に入ったよね

斎木 ダンスが上手かったからね

金一 飯野おさみさんが四季に入ったのは突飛だったよね、

当時は鹿賀丈史さんとか飯野おさみさんとかは異端児というかな、

四季にとっては、正統派というかジロドゥとかアヌイとかの芝居を

浅利さんはやりたかったわけじゃないですか、だから日下武史さんとか

それから榎木さんはいたかな・・憶えてないけど、・・

ようするにちょっと小洒落た左の演劇ではない、といって大衆演劇でもない

ちょっと小洒落たお芝居をやりたいと言う事で飯野さんが良かったのかな

斎木 文学座とか俳優座とかと違っていましたね、四季はね、

金一 うん

斎木 クリエイトの仕事に参加したのはその松島トモ子さんが初めてだったんです、

その後にクリエイトの事務所に行って話をするんですけど、その当時クリエイトとは別の

スタッフグループで、えんちゃんがやっていたスペースカンパニーというのがあったじゃ

ないですか。

金一 えんちゃんというのは遠藤さん

岡野 遠藤さんというのは「にんじん」でお付き合いした

金一 そうそう、スタッフ集団で包容力もあるし、松竹芸能に勝さんという有名な人がいたんですよ、

その松竹芸能が演劇を自主制作をするときに遠藤さんが中心なってやっていたんです。

   私が最初にお付き合いしたのはにんじんかな・・

岡野 いや、その前にお付き合いがあったとお聞きしていますよ。

斎木 死神じゃないですか

金一 ああそうだ、うちも人が足らなくて手伝ってもらっていたんだ。

斎木 当時は劇団の芝居とじゃなく、西部劇場なんかで面白い作品とかやっているのを観ると

スタッフの所によくスペースカンパニーという名前が出ていたから、こういうグループが

あるんだな、と思ってた。その頃はクリエイト大阪の名前は無かったかな。

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クリエイトの温泉旅行

金一 そうだね

斎木 クリエイトに入るキッカケになったのは朝倉摂さんが学校に講演に来ていてちょっとお話をさせて

頂いて「日本一の舞台監督がいるよ・・」って話を聞いたんですよ。

それは金一さんのことだったんですよ。

それと並行して先ほど話した松島トモ子さんをやることになって、金一さんの所なんだと言う事が

分かったんですよ。で、学校を卒業してですが、舞台監督をするというよりは

舞台美術をやりたかったんですが、取りあえずご相談させていただこうと思い、

元防衛庁のあの路地のところにあった事務所にいったんですよ。

松島トモ子さんの時に金一さんは手伝いに来ていて、その時すこし話をさせて頂き、

それだったら一度話をしに来てみれば、ということで行ったんですよ。

その時うちには何人かのスタッフがいて演出志向の人もいれば制作志向の人もいる。と話を聞いて、

それだったら美術志向の人間もいても良いんだな、と思って

「御厄介なります」って言ったんだけれども。

「もしお前が舞台美術をやるならばどっかの先生の弟子に付きなさい」って

その時は言われたんですよ。たしかしそうだな、と思ったんですけど、

何故そうしないでクリエイトに厄介になろうと思ったのは、誰か一人についたらその人の事しか

分からないですよね。それと演出部というのは物創りの一から携わっていくじゃないですか、

それといろんな人との出会いがあるだろうな、と思って海の物となるか山の物となるか

分からないけれどもクリエイトに御厄介になります。ていうのが最初ですね。

金一 俺はね、朝倉摂さんから私が教えている学校の生徒で斎木さんていうのがいて・・

斎木 生徒でもなんでもないんです、それは照明のアルバイトで立木さんの助手の助手みたいことで

立動舎の事務所に機材を取りに行ったりとかしていた時に少しお話をしたことがあるんです。

金一 ああそうか

斎木 でも、朝倉さんは凄い人だと思いますけど、この人の弟子ではないな、って当時思ったんですね、

なんとなく。

金一 ああ分かる、朝倉摂さんは図面は描かないじゃないですか、摂さんが描いた絵をお弟子さんが

具現化していくという特殊なデザイナーだよね。

斎木 お父さんが彫刻家で、そういう芸術家の流れでなんでしょうね。

斎木 あそうだ、それともう一つルートがあったのが、照明をやっていたじゃないですか、

それで青俳でアトリエ公演っていうのがあったんですよ、稽古場でね。

金一 青俳というのは青年俳優座か

斎木 そうかな、そのアトリエ公演で、小さい公演だから照明プランをやらしてもらったんですよ。

金一 斎木さんが

斎木 はい、小さいグループの照明プランは何本かやりました。松田雄作がF企画という

若い連中を集めた劇団を何故か美術プランではなく・・・それで青俳という劇団のアトリエ公演で

その時に美術をやっていたのが松野潤さんだったり高木慎子さんだったりしたわけ、

つまり朝倉さんのお弟子さんだったわけ。

そういうところでも知り合いになったりして、そこでもクリエイトへのルートがあったんですよ。

金一 なるほどね、俺は朝倉摂さんから話を聞いてやってくれ、って言われたのと、

これからの美術家は舞台の事を分かってないと絵を描けないと思ったわけ、

それで舞台監督として修業するのも悪くないと思ったわけ。

斎木 そういう事でのお付き合いで摂さんからクリエイトに正式に紹介はされてないんです。

岡野 僕はずうっと朝倉摂さんのお弟子さんかと思っていた

斎木 金一さんがそう思っていたから私の事を紹介するのにそうしたんじゃないかな、

ま、その方が通りがいいてゆうこともあるけどね

金一 俺はてっきりお弟子さんかと持っていたよ。

斎木 接点が全くなかったわけじゃないけど

金一 じゃ斎木さんの先生筋にあたる訳じゃないんだ

斎木 全くない(笑い)

 

1998bowling.jpg

1998年の斎木さん クリエイトのボーリング大会

 

金一 今はインターネットで知り合いになったりとか、調べものがすぐできたりとかしているんだけど、

   私たちの頃はいろんな無駄があっって、回り道したけど、無駄の中からセレクションできることが

あって感じがするよね。私は昔から活字になったり、綺麗になったりすることは好きでは

なかった、日本の字、書くということは残ると思ったし、年賀状作るとか、

名刺を考えるとかのできるだけそういう思想を生かしたいと思っていた、

それは斎木さんの特性である絵とか文字とか

オリジナリティーが目を引いていた。だから名刺は一個にしたくなかった。

個性を生かしたかったからあいうめんどくさいことになったけど・・・

斎木 だからデザインを何パターンか描いて持っていったら「じゃ皆に選ばせて全部作れ」って

言われて、なんて手間なんだと思った、

だけどそれはそれで面白いと私は思いましたね。一種類じゃないと言う事がね。

金一 組織のあり方をそうゆうとこで表したい、各自個性的ではあるけれどもどこかで統一感をもって

いたいので名刺はお願いした。そういうことで年賀状もせっかく出すのであれば個性的なものを

表現できることでやろうということでお願いした。

岡野 クリエイトの年賀状は81年からですかね・・・

金一 そう、その前までは村元さんが作っていたプレイガイドジャーナルの年賀状の中に

クリエイトとのメンバーは東京チームみたいに名前が載っているわけ。昔は皆で

アイディア出し合って年賀状を作っていたけど、最近は斎木さんにまかせっきりだけどね。

斎木 もうアイディアが枯渇していますよ

金一 そうだよな、もう何年もやってと。ちょっと話が飛ぶけど、

いまクリエイトで斎木さんの書体をまねて書類なんか作ってるじゃない。

斎木 フォントね

金一 そうフォント、これはね個人的には俺はちょっと違うかなと思ってる、

というのは斎木の文字は斎木の文字で勢いとその時の状態で生で書くとちゃんと

読めるんだけど、フォントにしたとき読めなくはないけど読みづらい。

岡野 バランスですかね、特に漢字の

金一 そうだと思うんだけど、考え方は分かるんだ、斎木さんに全部頼むのは大変だから。

   フォントを作って色んな文書に入れ込んでいて、役員報告書なんかで斎木フォント使った文書

よむとなんか読みづらい。個人的にはこういうデジタル化した方向に向かわなくてはならないと

思うんだけど、なんか中途半端な感じだよね。違和感がある、これはさ、書いていくときの

生の字のバランスとか癖とか並びとかで出来上がっていくのが、

フォントだけ使っていくもんだから筆跡とか筆順とか無視している感じバランスが悪い。

もっと進んでゆくと色んな学習して良くはなるんだろうけど。

斎木 実は私もあれはいやなんですよ、クリエイトからやってくれって言われて当初は自分の文字に

馴染んでいただくというのは良いのかなと思って協力したんだけど、あまり好きじゃない。

筆が遅くて申し訳ないけれども可能な限り描こうと思いますけどね。

金一 そうだね

 

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クリエイトの名刺、封筒、年賀状などのデザインは斎木さん

 

金一 斎木さんの文化学院のときの先生は朝倉摂さん以外誰がいたの

斎木 朝倉さんは一回講演をしに来ただけですよ。フランス文学をやっていた利光さんというのが

主任教授で、あとは劇作家で演出もやっていたんですけど黒川欣英さんという方が

居たかな・・・偶然に再会したことがあって、昔の知り合いが世田谷の松陰神社の近くの

スタジオで芝居の稽古をやっていて、そこに手伝いにいったらそのスタジオの持ち主が

その黒川さんだったんです。

金一 へええ、その学校で一番年齢が近いのは臼田?

斎木 いやいや新川、私は2浪してから入ったから、他の連中は浪人しないで入ってるからそこで

3年なり4年なりひらきがあるんだけれども、何期生でいうと新川、岡林、臼田になるのかな。

金一 その3人は斎木さんふくめてなんかやっていたの

斎木 新川は役者になりたいていってた、ボードビルショーみたいなの、学校のときは裏の仕事も

やるんだけれど出演がメインだったわけ、それでも他のアルバイトをするより裏方のアルバイトを

したほうのが良かったのかな、だったら「ちょっと手伝って」て連れて来たこともあった。

ただクリエイトに入れとは一言も言わなかった。「裏なんて何時でも出来るんだから舞台に立ちたいん

だったらそっちをやりなさい」てずうっと言い続けてきたんだけどいつの間にかこんなになっちゃった。

金一 3人は何かのクラブとか・・

斎木 文学部だったけれどもその中の演劇のコースがあってそれで一緒だった。

金一 一緒になんかやったことあるの

斎木 卒業公演だったり他にもいくつかやりましたよ。クリエイトではないけれど他のお芝居を一緒にやった

こともある。

金一 新川さんは最初ものすごいシャイな人だったよ。

斎木 ちょっと構えているじゃない、慣れればいいだけど、それで新川は芝居をやってても楽屋は

面白いんだけれど舞台に立つと面白くないの、コメディーなんだけど。そういう人いるでしょ。

斎木 それで私はあいつは才能はおいといて役者になるんだろうと思っていた、本人がやりたいって

言っていたから。それでどこにも所属しているでもなかったから「じゃ手伝うかい」って

アンパンマンとかに連れていったりとかしたわけ。

金一 それは初演?

斎木 そうそう金一さんは初演に手伝いにきていて、旅は大橋さんとだったけど、大橋さんは

すぐ違う現場になって、それで新川を連れて行ったりしていた。

金一 伊東で初日開けたやつだよね、孫福さんのセットだったよね。

斎木 孫福さんは以前から知っていたんですよ。金一さんから昔、「お前は摂さんというより

カッパさんや孫福さんだよな」なんて、センスは確かに近くて、テアトルエコーの

天井付きのセットを観て凄いなと思って、実は孫福さんに弟子にして下さいて

お願いしたことがあって、でも「俺は弟子は取らない」て断われた、

ただ機会があれば接して盗んでいければ良いなと思ったし、道具帳見たりして

学んだことはいっぱいありました。

金一 なんかさ、孫福さんていうのは私のかってな思いであるけど、

一般的な評価はあの人の実力に比べて低いように思う。

例えば河童さんとか朝倉さんとか金森さんとかいらっしゃるけど、

評価はもっとあって良かったと思うな。

斎木 本人がそういうところ頓着していないのかもしれない。

岡野 前に出るタイプじゃないということ

斎木 そうそう、だから、ちぃっちゃい地方の劇団なんかもやられてたし。

金一 私は初めてアンパンマンをやらせていただいたときに「へえーすごい美術家がいるんだ」って

思ったことがあった。でも人は腕があっても日の目はみない、ていうかお陽様の陽の

当たるところには出たがらない。

斎木 凄い大きな作品には携わってはいなんですよね

金一 そうなんだよね、なんか人の人生ってさ、大きなものエポックなものってあるじゃないですか、

多分彼の中にもあるんだと思うけれど、世間一般とそれがリンクする形にはなっていないなと

感じるんだよね。

斎木 それで新川をこっちの手伝いをすることになって、

その時に大橋さんと知り合いになったんですよね。

それでその頃大橋さんが田村さんとサーカスていうグループをやることになって、

そこに新川も加わりクリエイトに来ることになったじゃないかな。

金一 岡林はその後になるわけ、Kidsよりまえだよね。

斎木 キッズの前ですね、オールスタッフのトウモロ―という作品にちょっと手伝ってもらったのかな、

あれはクリエイトに人がいなくてエンちゃんがサブに付いてくれたんですよ。

昔、エンちゃんの会社に行こうなんて思ったこともあるんで感慨でしたよね。

金一 遠藤さんは人柄も良くて包容力もあって、大道具のことも凄く知識が豊富だったよね、

それに比べて三田村さんは暇さえあれば体を鍛えていてムキムキマンだった。それで鍛えた体を

ポーズをとって見せびらかして、変わったやつもいるなって思った。

金一 斎木さんが遠藤さんに手伝ってもらったように、当時、場合によってなんだけどクリエイトに

人がいなくてほかの会社にお願いしてきてもらったりしたことがあったよね。

オレ天もそうだね。

斎木 パルコでやっていたオレ天もクリエイトの仕事だったんですか。

金一 そうだよ、

斎木 三田村さんはプラスでついていたの

金一 そうだよ

斎木 あれはお客さんで観に行きました。

金一 それとジーザスも三田村さんが手伝ってくれていたはずだ、

当時は人力で動かすので人手が沢山かかり、舞台監督も人手がいる内容だった。

斎木 当時写真でしか見なかったけど、凄い違和感を感じましたね。

金一 違和感あったよね、やっていてそう思った。隈取でしょ、アンドリューロイドウェーバーが

その映画が好きではなかったらしいんだけど、それを浅利さんが真似っこしたんだと思う、

エルサレム版という砂のセットがあるんだけど、あれは俺らがやったやつより良かったわけ、

全然違和感がなかった。

岡野 荒涼たる砂のセットにクロスがあるやつ?

金一 そうそう、それがね、実にこなれていて、無理が無くてみんな伸び伸びしていて、

必要な所だけアッと思わす演出で、人が死んでゆくところなんかはその砂の中に飲み込まれて

ゆくわけ、俺らがサンプラザでやったのはさ、自殺なんかで死んでいくとき、

首つったやつが天井に飛んでいく仕掛けでやっていたじゃない。

岡野 あの砂のセットはサンプラザじゃないんだ

斎木 あれは日生劇場でまずやって、そのあと再演になるのかな、西武劇場でやったやつを

フロントから観た。

金一 日生がエルサレムバージョンの再演で、その時はすでに劇団四季のチーフ舞台監督に

田村君という、これは違う田村君で、でか田村と呼んでいたかな、

死神の時に遠藤さん横山さんらと田村さんも一緒に旅に周ってくれたんだけど、

田村さんはもうその時劇団四季のチーフになっていたの、日生で再演するとき資料が全く無くて、

田村君が俺のところへ来て初演の資料貸してやったの、当時四季がどんどん大きくなっていったので

資料なんかどこかへいちゃったんだと思うけどね。

それで再演を観たら俺らがやっていた時のよりも全然良いわけ。

斎木 当時、映画版の物まねとよく言われていたと思うけれど、舞台成果としてとてもよかったですね。

金一 そうそう、あっていたと思った、そういう物はね、死神をオールスタッフで何周年かで紀伊国屋で

やったんだよ、これも俺らがやったやつよりも全然良いの。そういうこってあるんだよね。

俺らがやったのは初演で、意気込みは凄くて「あれもこれもやりたい」ということで結構あちこち

破たんしている、でも随所に面白い箇所はあるんだけど破たんしている。

斎木 勢いは有ったんでしょうね、ジャパネスク版というかオリエンタルチックなことで

イギリスの作家の聖書に纏わる話をしようとしたときの捉え方というのが、

普通じゃないという気持ちが強かったんでしょうね。

金一 ロンドン版なんかの最初の出方が衝撃的な演出をやっていたのでそれに優れるものを

創りたいということがあったんじゃないかな。それはよく陥ることだけど、浅利さんが

長野オリンピックの時に横綱を起用したりとかの発想と似たり寄ったり、割と陥ることなんだけど、

だけどロイドウェーバーは初演を気に入ってたみたい。

   当時四季は進んでいるなと思ったのは、稽古するのに稽古ピアノがちゃんと入ってミュージカルの

稽古をしていた。あの時代としては珍しいなとおもった。

岡野 ジーザスのですか

金一 そう、俺らがよくやっていたのはテープ、オケとかピアノとか録音して切ったり貼ったりして

小節伸ばしたり縮めたりしていた。

音響さんから貼るテープを借りて舞台監督が編集したりしていた。

その時四季はピアノでやっていたから進んでいるなと思った。

その時の訳詞が青井洋二さんだったんだよ。青井洋二さんも劇団員になってのか知らないけど

外側で色んな仕事をしていた。

斎木 でも三田村さんは摂さんのお気に入りだったから、朝倉さんの弟子の高木さんと結婚したの。

金一 あそう、それは知らなかった。高木さんていうのは何代目の弟子なの?

斎木 松野さんがいたときにはもういたから割と古いよね。

金一 ていうと伊藤保恵さんより前・・・

斎木 前だと思う、彼女はアメリカで勉強してくちだからそういうこともあって

金一 ふーん、アメリカの文化庁公演の話なんだけど、今はあるんだけど、

ずいぶん前から舞台監督協会みたいな外郭団体を作って文化庁に圧力をかけられるように

早くした方が良い、と吉井先生はじめいろいろおっしゃって頂いたけど、俺はさ、

なんか組織を作って圧力かけるのは好きじゃなくてさ、それはさ、

俺の欠点でもあるんだけど・・・

斎木 井出さんのほうに金一さんからそういうのやりなさいて聞いた。

金一 文化庁の海外派遣は照明家協会とか美術家のグループから出すのをやっていて、

吉井さんからは「お前が嫌だったら誰か行く奴を見つけたら口だけは聞いても良いぞ」と

お話を頂いたこともあるんだけど、その辺は何となくそういう事をした方のが

良いかもしれない。真悟さんはJATETの繋がりとかの関係もあってそういう事も

やっていった方が良いじゃないかなと考えているみたい。

斎木 金一さんが言った文化庁のやつは照明とか美術とか技術的なスキルを学べる事はあるかも

知れないけど、舞台監督に関しては公演形態が日本とアメリカ、ヨーロッパとは違うから

そういう事での学びというよりかは、民間というかそれぞれが自分たちで動いて学んで

いくしかないんじゃないかな、なんか御上の仕事じゃないんじゃないかな。

金一 斎木さんが言っている様に、文化の事に御上が関わらなくてはならない、

と言う事は間違っているじゃないか、というのが心根で大体御上が関わって良くなることが

少ないと俺は思っている。

斎木 とは言え、芝居なんかは助成金が貰えなくちゃ成り立たないわけよ、御上が入ってくる

必要はないよ、って言いながらも貰えるものは貰った方が良いわけ、

その一環で行けるんだったら行っとこうよ、という程度であれば良いだけど、

本当の目的としてスタッフが向こうに行って学ぶにしてもそれは差を見せつけられるだけに

過ぎない様な気がしますけどね。

金一 この前、社員旅行でラスベガスに行ってシルクのショーでオーとかカーとか観て

これはもう俺には出来ないと思ったね、それはお金とか知識、人間でないものを

信じる能力というか、物凄い知識が無いとあの危ないのは信じられない分けじゃない。

こんな危ないのは俺にはできないと思った。

じゃ舞台監督がとか向こうに行って今学ぶものは何かあるのかというと・・・

美術家、デザイナーはなんかあるのかね。

斎木 舞台監督よりは方向性がはっきりしているからあるんじゃないですかね。

岡野 舞台監督にもいろいろあって、演出志向の人とか美術に強い人とか制作に強い人かそういう

自分の特長を生かすには学べるものはあるんじゃないですかね。

金一 そうか、それぞれの舞台監督がイメージするものによって違うと言う事だね、

大塚が考えている舞台監督なんて玉虫より演出家志向が強いもんね。

金一 話は変るけどブロードウェイの子供たちを出演させたKidsは斎木さんが舞台監督を

やったじゃない、小椋さんが書いたやつ。

斎木 おおいなる失敗でしたね。

金一 二回やっているよね。

斎木 二回というのはKids本公演の前にプロモーション公演というのがあって、

それは本公演に出演する子供たちのお披露目でその子たちのスキルを見せる公演で、

バラエティーショーみたいなやつ、これは良かった。

金一 これは良かったよね。

斎木 流石にブロードウェイの子供たちというのが出ていた。

金一 ところが手を加えてミュージカルにするという段階でジーザスや死神の話じゃないけど

やっぱり力が入りすぎて理屈っぽくなる、僕たちが考えた理屈というのは、

小椋さんはミュージカルをやりたいということなんだけど、アメリカの子供たちが出て

日本語でしゃべるミュージカルをやるというのはそれなりのシチュエーションがないと

成立せえへんやないか、たどたどしい日本語を喋ってそれがミュージカルになるための

シチュエーションが思いつかない、それで斎藤憐さんの登場になるわけだ、

斎藤憐さんにそこの仕掛けを考えてくれとお願いした。

斎木 お願いしたが構造が二重三重構造で複雑になっていて出演者の親が台本読んでも分からない。

岡野 そもそもあれは誰向けに作ったんですか。

斎木 ファミリーミュージカル。

岡野 そうですよね、それにしてはストーリーが込みいっていましたね。

金一 そうなんだよ、その責任の一端は我々にもある。それは何故かというと

日本でアメリカの子供たちを使ってミュージカルをやる、何故それが必要なのか?

斎木 メリットをどこに持ってゆくかだよね。

金一 何故そんなことをするのか、というストーリー上の必然性が無いと違和感があるんじゃないかと、

岡野 バラエティーショーみたいなので良かったんじゃないかな。

斎木 だから最初のプロモーションはバラエティーだったから良かったのよ。

岡野 彼らの持ち味が生かせる、そういうシーンが少なかった。

金一 斎藤憐さんというのは上海バンスキングが成功していたので、

これは斎藤憐さんやろ、と思っていたんだが、これが大失敗だった。

斎木 斎藤憐さんと久美さんがけんかするし

岡野 僕も当時ぺいぺいで旅も廻ったけど、

客席から笑いも何もおきないというのはどうしたものかと思っていた。

ちょっとシリアスだったかな。

金一 そう難しすぎたんだ。

chirashi.jpg

Kidsの公演チラシ

 

斎木 金一さんの質問の中で日本のミュージカルのことが書かれていますが、

私は一番ミュージカルらしいと思っているのは

1950年代のMGMのあの数々のミュージカル映画なんですよ。

あれがミュージカルだと思っているから話なんて簡単で良くて、それをいかにうまく

面白く表現して出来るかが楽しいミュージカルだと思っている、

だから辛気臭いミュージカルは好きじゃない。

金一さんがミュージカルで上海バンスキングが良かったというけれど、あれはミュージカル

じゃなくて音楽劇だから、広い意味でミュージカルかもしれないけれど。

岡野 お芝居の中に音楽がある

斎木 そうそう

金一 ミュージカルとは何ぞや、という議論があるけど、例えば芝居でアマデュスを観に行ったけど

これはミュージカルだと思った、歌ってはいないけれど全編にモーツァルトの曲がふんだんに

出てきて、江守徹さんと当時の染五郎さんが交互にアマデュスとサリエリとをやる、

両方とも観たけどなるほど、これはおもろいやんけ、と思った。

斎木 あれはミュージカルというよりは歌舞伎なんですよ

金一 歌舞伎か

斎木 ミュージカルといえばミュージカル、広義ということでは

金一 ミュージカルとはこうあるべきだ、なんて考えないでこういう事をしたら面白いことができる、

それがたまたま音楽劇だったりミュージカルだったりして良いじゃないかな、

とこの頃は思っている。

斎木 私もそれで良いと今は思っている、だけど好きなのはさっき話したミュージカル、革命的なのは

ウエストサイドじゃないですか、良くも悪くもあれが大革命だったと思う。

金一 俺はそれまで嫌いだったけれどあれを映画館でみてこんな面白いのがあるんだと感動した。

岡野 圧倒的に音楽が良いですよね

斎木 ていうか、ロケであれだけ踊って、子供ながらロードショーで銀座のピカデリーで観たけれど

凄かったですよね。

金一 子供が観てそう思ったのだから凄かったのだろうね、じゃ振り返ってミュージカルをランク付けすると

一番は何?ときかれたらマイフェアレディ―かもしれない。

斎木 金一さんマイフェアレディ―なんだ。

金一 当時のイギリス人というのは如何にこうであるという事の上に乗っかっていて

実に良くできている。

斎木 何方かの舞台版はご覧になりました。

金一 いや映画だけ

斎木 僕はやっぱり「雨に唄えば」だな

金一 このないだね、シアターオーブでやったやつ、観に行こう思ったけどチケット買ってなかったの、

それで私のイギリスの友達があれを観るために来ることになって、友人はチケットを買っていて、

それは何としても観に行かなくてはと思い、シアターオーブに電話してお願いするのも嫌だし

並んだの、そしたら前10人くらいで売り切れて、それが2回あって結局観れなかった。

斎木 あれは映画がオリジナルで、前にもトミースティールであった、日本でも東さんかな、

やっていた。

金一 観たの。

斎木 私は怖くて観れない、映画が好きだからね。

金一 岡野さんは好きなのは

岡野 僕も50年代ものが好きで、ヘップバーンとかはファッションとかも御洒落で、

パリアメなんかもダンスシーンは長回しで撮っていて、ダンスも撮り方も凄いなと思った。

斎木 出演者がそれに耐えられるスキルを持っていた

金一 当時はミュージカルという物はアメリカの物凄い勢いがある文化で、それ相応のスキルを

持ってないと出られなかった。それに層の厚みもあったよね。

時代がそういう物を養えるだけの力が無いとああいうふうに膨らんでこないから、

今一人や二人スキルのある人がやってもああいう物は作れないじゃないですか。

岡野 ハリウッドって、映画産業を国でバックアップしていたじゃないですか、

一種のプロパガンダだと思うけれど、日本とのレベルが違いますよね。

斎木 ま、これがミュージカルで他はミュージカルじゃないとはもちろん思わないけれど、

かなり裾野は広がりましたよね。小さな劇団でもちょっと踊って歌えばミュージカルに

なっちゃう。ただ裾野は広がったけれどかなりハードルは下がったとは思いますね、

これミュージカルと言ってくれるなと思うやつはありますね。

岡野 猫も杓子もじゃないけれど、ミュージカルやりたがりますよね、スタッフ、特に演出部は

大変じゃないですか、その割には実入りが少なくて、なんか矛盾を感じますよね。

金一 何となくさ、雰囲気としてそれほどみんな好きじゃないと思うけれど、

何となくミュージカル好き?

斎木 ストレートプレイに耐えられないのかもね、観ている方も、ちょっと息抜きじゃないけれど、

箸休めみたいに歌とか踊りが入っている方がバラエティーっぽくて良いと思っているかも

しれないですね、制作側も、なんか志が低いんだよ。

金一 なんかね、この頃そういう風に思えてしょうがない、

岡野 ミュージカルって無茶苦茶大変じゃないですか・・

金一 そうそう時間は物凄くかかる、

斎木 今の状況としては時間もかかるし金もかかるけれどペイが出来ないから、突き詰めてやれない、

そうするとお茶を濁すというと表現が悪いけれどモドキみたいのはやたらにありますね。

金一 スキルがあったからああいう作品が作れたというお話があったけど、劇団四季のライオンキングと

イギリスで観たライオンキングはまったく同じ、絵に描いたように同じなの、

斎木 四季の輸入物ミュージカルは良くもあり悪くもりますけど、

現地に行けない人たちが本場のミュージカルに接することができる、

イミテーションなんだけれど、ま、良いかと思いますよね。

金一 じゃ映画で良いじゃないの、と何処かで思うミュージカルの作り方、劇団四季というより

ディズニー側から小道具も、衣装も一切変えるなと、言葉だけ日本語で後は変えるな、と

ディズニーとの契約なんだと思けど。

斎木 そうでしょうね、観る側、それを観られる人たちはそれでも良いと思いますけれど、作る側、

言われるままにコピー、イミテーションを作る側の人たちはどう思っているんだろうな、

と思いますよね。

金一 そう、俺も観ていてえーここまで一緒って思う

斎木 金一さんは見比べる事が出来るからですよ、他の人は見比べることが出来なじゃないですか。

金一 そうだよね。ロングランをやる為にグレードを落とさないと言う事で

そういうふうになっているんだと思うけれど、新しい演出家で新しい試みを行われる

と言う事で話題を呼ぶということもあると思うのだけれど、

なんかその辺り疑問を感じるよね。

岡野 逆な考え方かもしれないですけど、オーディエンス側としては劇団四季とかライオンキングとか

一種のブランドになっていて、そういうのが安心して観られるじゃないですかね、例えば帝劇で

新作をやる場合、出てる役者のファンなら観に行くけど、どれだけの一般の人が観に行くか、

四季が輸入ものをやっているけれどそれはそれで有りなんじゃないかなと思いますけどね、

興行的にですけどね。

斎木 私なんかは四季の輸入物ミュージカルはディズニーランドの派出所だと思っているから、

だから四季ではないと思う。

金一 だからそういう戦略になっているんじゃないかな

斎木 商売としては良いと思うけれどやっている人たちはどう思っていのだろうか。

岡野 日本での純粋にミュージカルのオーディエンスはどれだけいるのでしょうね、

なんかそれほど居ないのではないでしょうか。

金一 それこそ地方と東京都の格差、ミュージカル人口は物凄く違うのではないかな、

よく四季が博多座とか地方でやっているけど、よくやれているなとも思うんだよね。

斎木 それはさっき岡野が言った四季ブランドというのがあるんですよ。

それは全国的に浸透しているから。

金一 そうだね、子供のころからうえつけられている四季の学校公演みたいなのがあるから。

斎木 みんながそれを観て満足しているかは分からないけど、

四季ブランドはあるから客が入るんでしょうね。

岡野 宝塚とか四季とかはそういう営業があるんでしょうね。

金一 だから立ち遅れたら演舞場とか明治座とかなるわけだよな、ようするにやることが無くてさ、

岡野 ジャニーズとかですか

金一 そうそう、お零れでやるとかになるわけじゃないですか

岡野 それはそれでジャニーズは凄いですけどね、帝劇でも沢山やっているし。

金一 凄いよな、昔からやっていた童謡コンサートですら松竹から帝劇で15日間やって頂けますか、

と話があったんだ、

岡野 童謡がですか?

金一 そう、当時はみんな強気だったから、30日だったらやるけど15日だったら中途半端だから

やらないって言われて、おれは全権大使じゃないけど断りに行ったな、

それくらい文化で儲けようというのは大変なんだよね。

東宝でも映画作るのに自分たちはリスクを負わないようになって、色んな所に

作らせてそれを放映するだけでリスクを回避してたりしている、そういう意味では

商売上手ですよね。

斎木 商売上手というか商売人じゃない、つまりそんなに志は高くなくていいかもしれないけれど

文化の発信源ではないですよね。

それは無いものねだりで今の世の中では難しいことなんだというのは分かりますよ、

映画が第一娯楽産業じゃなくなったし、

金一 それにしても映画は一時に比べ沢山作っているよね、

岡野 でも原作がコミックだったりするあたりはちょっと悲しいかな、集客ターゲットが若い層で、

その辺りは音楽のターゲットと似ている。

金一 わしはワンピースだけは全然分からなった。

斎木 いいんじゃないですか分からなくて

金一 でもさ、みんな面白いって言ったり猿之助さんはスーパー歌舞伎でやったりしたから

面白いと思うんだ。

斎木 それは座頭の猿之助さんがやろうって言ったのか松竹がやろうって言ったのか

分からないじゃないですか。

でものらなかったらやらなかったとはもちろん思うけどね。

金一 まあね、でも今面白いまんがのトップ10になっているんじゃないの。

斎木 なんか舞台も映画も観客というか受け手の幼稚化は止めなきゃダメなんじゃないの、

舞台が啓蒙するような場だと思わないけれども、低年齢化は良いのかな。

金一 俺は漫画もよく読むんだけれど沈黙の戦艦とか20世紀少年とかは面白かった

斎木 もちろん面白い漫画もあると思いますよ。

金一 話は変るけど、斎木さんがやっている葉っぱのフレディーは長くやっているよね

斎木 葉っぱのフレディー、実は昨年からやっていないんですよ、

原作は絵本を作ったレオ・バスカーリアなんだけれど、

もともと聖路加病院の理事長だった日野原さん、いま104歳かな、その日野原さんが

何故か舞台としてやりたいと思って脚本を書いたの、

ただそれだけでは上演出来ないから今のスタッフが入って正規に上演権をとってやって、

それとは別に砂田さんのほうが島田歌穂さんで葉っぱのフレディーをやったんだけど、

あれは名前は葉っぱのフレディーだけど話はオーヘンリーなんですよ、

それで結構もめてあっちはできなくなって、こっちのフレディーは上演権とってやって

いたんだけど、エージェントに断りなくフレディーの名前を使っていろんな活動を

してたいということがペナルティーになってできなくなった。

金一 俺は観ていないけど出来はどうだったの

斎木 子供向けのファミリーミュージカル、葉っぱを擬人化して原作にのっとりながら葉っぱの一生の

ストーリーなんだけど、日野原先生が医師活動と共に唱えているゴーギャンの描いた我々は

どこからきたのか我々は何者か我々は何処に行くのか、という人間の生まれ方、生き方、死に方、

みたいなものをオブラートに包んだ感じ、実は昭和女子の人見記念講堂で一回だけの

公演だったの、その一回をやる為の期間が短くて、でも火事場のクソ力じゃないけど

スタッフワークも良くて出来たの、それで一回だけじゃもったいないと言う事で

継続してやることになった、ピンキーが出たりしていろんなバージョンもあって

ここ何年かは宝田明さんがキャストに加わって、引っ張って頂いてると思う、

お年だから大変だとおもいますね。

金一 音楽は誰がやっているの

斎木 音楽はね玉麻尚一さん、新しい人なんだけれど宝塚とかいろんなミュージカルを手掛けていますね

金一 入りはどうなの

斎木 まあ苦しいですよね、昨年赤字が出てそれで長年のお付き合いにもかかわらず皆様には

お願いできなくなりました、という具合ですね、2004年は未回収でもあるのに、

そんな感じですね。それで昨年の赤字はやっぱり集客でしょうね、凄い必死になって

がむしゃらにやっているようには見えない、プロデューサーが神奈川県知事の黒岩さん

だから9月に神奈川芸術劇場であるのだけれど、公演数は減って、

旅も東京、横浜、大阪ぐらいかな。

金一 斎木さんはデザイナーで参加したの

斎木 いやデザイナー及び舞台監督で、CUE出しとかのハンドリングは個々にやってもらって、

全体のとりまとめみたいな感じでやっています、あとは舞台美術。金一さんの質問事項に

舞台監督と舞台美術をどう考えるか、と言う事なんだけど、本当は美術だけやりたい、

やりたいけれども舞台監督としてもうちょっと中に突っ込んでやったほうが良いものが

出来るんじゃないかなと思うことがあるんですよ。

両方兼ねると言う事はそういうことがありますよね。

金一 その場合はハンドリングする人が他にいると言う事

斎木 そうですね、でもいない時もありますよ、一人の場合、いろいろ大変だけどこれは必要かな、

必要じゃないなというのが凄く解る。他の舞台監督がいて美術だけやるとかなり突っ込まないと

そのへんは見えてこない。なんていうか兼ねてやっている方がより作品に近くなれるように

思える。必ずそれがベストだと思わないけれど、その方が良いことがあるだろうと持って

いるから両方受けることがある。だからお芝居なんかで舞台監督お願いします、と

お願いされた場合、美術と一緒だったらお受けするけど舞台監督だけはやらないんです、

と言いますよ。

金一 へえ、それは特殊なパターンだね

斎木 クリエイトでは特殊でしょうね、私の中では成立していますねけど。

金一 串田さんとか佐藤さんとかは美術セットと演出を兼ねていることがあるよね、

斎木 串田さんなんかは全体のアイディアとちょこちょこっと絵を描いて、

現実的に形にするのは私がやっていたりとかするわけですよ。

金一 斎木さんはいろんな演出家とお付き合いがあったと思うけど、和田誠さんとは長かったよね。

斎木 和田さんは学生時代からあこがれの人でした、イラストレーターであり映画とジャズに造詣が

深いし、当時、話の特集という雑誌があってそれに和田さんが良く書いていてパロディーの

面白さというのが物凄く上手くて、和田さんが出した本はほとんど買って

読んでいたし、ですから一緒に仕事を出来るとは思っていなかったから

それは嬉しかったですね。

金一 和田さんはスタッフをあまり替えない人、

斎木 あまり拘っていないような感じだけど

金一 いや拘っている、この作品だったらこういう人とやりたいとか、そういう事は言わない人だね、

気に入ったらずうっと替えない、良くしたもので斎木さんの絵もこれでいいよ、って

一発で決まっていたよね。

斎木 そうですね、仕上がった物に関しても気に入って頂けたと思いますね。

金一 相性が悪い演出家と美術家だとダメが出て描き直しとか多かったりするけど、

斎木さんはそんなことなかったね。童謡コンサートも斎木さんにやってもらって、

何年くらいやってた?

斎木 10年くらいはやっていましたね。

金一 最初の頃はあまりお金が無くて、だんだん売れるようになっていろんなものが足されて、

それで良くなくなっていった、という例の一つだけど、良くしようと思って足すんだけど、

当初の意図したことが薄れていく、そんな感じだった。

斎木 あと金一さんと一緒にやったのは伊東ゆかりさんかな、パルコで、

金一 そうだね、あれは村田大さん演出で、山川さんが書いたの、

あのセットは小屋の感じにぴったりハマっていて、プランも描き直しがなかったよね。

斎木 自分の中ではちょっとなというのが有りましたけどね、

金一 それは

斎木 世界感とか要求されたことは無理なくできたんだが、仕上がりを計算して出来なかったかな。

金一 伊東ゆかりさんのパルコも長かったよね

斎木 10回くらいやりましたね。

金一 短くて5日間くらいやっていたよね。

斎木 月曜日に仕込んで日曜に千秋楽みたいな感じだった

金一 そうだったね、斎木さんが賞をもらった作品だけど、あの劇団とは長く付き合っているの?

斎木 今年も夏にやりますけどね、墨田パークスタジオの中の劇場で、その劇団とのきっかけは

4年位前かな、以前お芝居の仕事をした時の制作の女性から電話があって、

今付き合っている劇団があって、小屋入りまで2週間なんだけれども、

美術の人が降りたんですよ、って電話があったの、それでその頃それほど忙しく

なかったので話を聞いたの、そしたらちょこちょこってやったら澄む感じじゃなくて、

内容はある男が朝目覚めたら体が十分の一になっていた、という話なわけ、と言う事は

パソコンとか部屋の中のコンセントとか全部大きくしなければいけないわけ、

いくら小劇場といっても全部自分では出来ないから、日本ステージに泣き込んで

部分的に作ってもらったの、後はこっちでやるからって、それが始めて。

金一 賞を頂いたのは何年目なの

斎木 それの次がオリジナルの作品で、王子小劇場でやったやつで、ある男の脳内の話、 

「指令室」というタイトルなんだけれども、最近インサイダーヘッドとかあるけれども、

ある男の脳の中を擬人化してやるんだけど、それをドーム状にして表現したの、

それが賞を頂いた作品。それで次にやったのは同じ劇場で宇宙船という題名で

宇宙船の中を作ったの、それで今年になる、まだまだ小さい劇団だけど、

頑張って続けて少しでも客が増えればいいなと思っていますよ。

金一 そうだね

 

 

2016511日 クリエイト大阪にて

 

 

 

2016/12/06 22:50:37