舞台監督にインタビュー

舞台監督の生の声をお届けします。

「舞台監督の仕事ってどんなことをするんですか?」 説明するのはなかなか難しい…が一番多く、また必要な質問だと思う。 「なんでも屋」的な部分を多く含んでいる舞台監督の仕事を大雑把に説明すると、3段階になる。

1.クライアントに会いに行き、話しを聞く。要望をイメージ化したり文章にしたりして「実現への設計図」を作る。
2.スケジュール、人員の手配、場所の手配、安全対策など・・・必要な人・場所・物など全てをもれなくチェックして準備する。
3.本番当日、設計図どおりに進行するように指示を出し、ハプニングに臨機応変に対応しながら危機を回避してクライアントの要望の実現をする。

・・・と説明しても、なかなかわかりづらい。 なので、「説明をする」のではなく、別の切り口から「歩み寄って」いただけないだろうかと考えました。 この仕事していて、嬉しかったこと、辛かったこと、面白かったことなど 生の声を聞いていただけたら・・・ そういう訳で、連載スタートとあいなりました。

最新のインタビュー
バックナンバー

クリエイト大阪創立メンバー 大橋誠仁にインタビュー

クリエイト大阪創立メンバーにインタビュー第3弾

学生時代、前衛アングラ劇団に所属していた経歴をもつ大橋氏、クリエイトに入って舞台監督デビューの話、様々な影響を受けたミュージカルツアーでの出来事、そしてバブル期に舞台制作会社を立ち上げた経緯、など語って頂きました。

                         

oohashi.jpg

      

金一浩司

岡野克己

取材・構成 五十嵐洋之(ビレッジプレス)

──大橋さんは何年生まれなんですか。

大橋 昭和23年、194814日。

金一 じゃあ、10歳違うんだね、おれと。

──山田さんや玉虫さんと同世代ですね

大橋 団塊の世代ですね。みんな何ヶ月かの違いで、ダンゴなんですよ。まるまる一つ年上はなべさん(渡辺登)かな。

金一 それで、舞台監督というかステージの世界に入ったのはどういう流れだったの?

大橋 1970年に学校が学園紛争でもめていて、指導教官が精神的に不安定になってしまって、たった一単位だったんですけど単位を出さないって言って、それで一年留年になったんですよ。

金一 大橋さんは大阪学芸大学で、何かの委員長をやっていたんでしょう。

大橋 何かやっていましたね。大学に入ってすぐに人形劇やったんですよ、二年間。それから普通の芝居にいって、当時演劇部は学園紛争でほとんど活動していなくて、同じ大学にいた美術学科の松本雄吉が日本維新派という前衛劇団を作ったんだけど、アッシはその最初の頃のメンバーだったんです。ある時は寺田町の芝居小屋を借りて、そこで一部は芝居をやり、二部は音楽ショーをやって、できないドラムを叩いていた。70年、71年ころの話ですね。一年留年もたった一単位だから、週に一回学校に行けばいいんですよ。むちゃくちゃヒマだったからそういうことをやったり、黒テントのあとは「プガジャ」=プレイガイドジャーナル(関西の月間情報誌)をやったりしていた。「プガジャ」の前身であった『月刊プレイガイド』の編集長は大学の同輩だったんですよね。

金一 事務所は天満橋だかの商店街のところにあったんだよね。

大橋 始めたのは神戸大学の学生だったんだけど、神戸大学の教授がフランスからああいうスタイルの雑誌を持ち帰って、これの日本版を作ろうということになった。休刊したのは、始めた本人がガス自殺したんだよね。やっと軌道に乗り出したときで、八千部売れるくらいになっていて、それの手売りの手伝いとかもしていたんで す。休刊してしまって、その編集長と「どうすんねん」なんて話をして、一年も経たないころに、大阪労演の大久保さんから「会いたがっている人がいる」って紹介されたのが金一さんですよ。それがきっかけになって『プレイガイドジャーナル』を作ることになり、読者名簿とかを引き継いで村元さんが始めたんですね。

金一 芝居は好きだったんだ。

大橋 好きでしたよ。

金一 人形劇は?

大橋 それはたまたま入ったときに勧誘に来た女の子がかわいかったから(笑)。日本維新派を始めたのは大阪学芸大学の中に美術学科と音楽学科という特殊な学科が二つあったんです。音楽学科の一年先輩が上柴はじめ(ピアニスト)さんですよ。この二つは同じ学内なんだけど独立している感が強く、美術部に松本雄吉がいて、はじめはタブロー、平面から立体になって、そうしたらやっぱり人間でやってみたいと考えるようになったと言ってた。だからもともと絵画的なんですよ、維新派は。ストーリーとか義理人情とかそういうものは二の次三の次で、あくまでビジュアライズするということで、等身大の人形を作って、その人形と一緒にパフォーマンスするとか、端から発想が違っていたんですね。そのときに、なぜだか分からないんだけど、ぼくに声がかかったんですね。演劇部にいたということがあったんだと思いますけど、創立のメンバーには京大の学生やピッピー風の人なんかもいて、学芸大学の生徒はあまりいなかった。結構いろんなところから、前衛が大好きな人たちが集まっていましたね。最初は日本維新派という名前だったんですが、多分右翼からプレッシャーがかかったんです。「日本維新派? それはわれわれの名前だ!」って。その名前にこだわっていたわけではないから「じゃあ、日本をはずそうか」となって維新派になったんです。

金一 維新派は関西ではちょっと名前の売れているアングラ劇団だよね。

大橋 唐十郎さんとかとも行き来があったし、NHKでもドキュメンタリー番組で取り上げられた。発想がおもしろくて、学校とか野球場とかで、観客席に客を入れて、グラウンド全体を舞台にしたり、天王寺の音楽堂でもやったんだけど、そのときは舞台を客席にして、客席に舞台を設営したんだけど、芝居の途中から仮設舞台の支柱を外していくんですね。そうすると、シーソーみたいになるとか。

金一 いまは維新派はどういう流れになっているの?

大橋 いまでもやっていますよ。どんどん若い世代が入っていて、もう三世代くらいになってる。数年前だったか、維新派が公演をやるというと、全然関係のないところから「手伝わせてくれ」って人が集まっていた。そういう、前衛演劇の動きをいまでも続けている、日本では稀な存在だと思う。むかし、全くの基礎から丸太で円形劇場を作って、その上に黒いビニールシートを巻いて、舞台は土俵みたいな感じのもので、最初に天井から人が降りてきて、最後には水も流して、舞台上が泥状態になるんです。その下に穴が掘ってあって、そこに泥と一緒に人も消えてしまうというような前衛的なこともやった。照明も、外からカッターでビニールに穴を開けて、劇場の外からライティングしたりして。その時はアッシが照明やってましたネ。

金一 維新派もやっていたし本当に好きだったんだね。

大橋 好きでしたよ。高校のときに「将来は何になりたい?」と聞かれて「俳優座の養成所に行きます」って言っていた。小学生のときに市川オモチャ一座とかの掛小屋芝居を観たときからずっと芝居が好きだったんですよ。大学の時は役者もやるけど演出もしていた。

金一 役者もやっていたんだ。

大橋 忘れましたか? 「死神」の全国ツアーが終わったときに山田修と西村晃(水戸黄門)さんに「おまえら、話がある」って呼ばれて、「修、おまえは舞台監督としての才能はある。このまま続けろ。大橋、おまえは舞台監督としての才能はない。おれのところに来て役者の修業しろ」と言われた。

金一 そんなこと、全然憶えていないな!

大橋 西村さんはサービス精神旺盛なところがあったから、ツアー中旅館の大広間で全員一緒の食事をする際にちょっとした芸をやるんですよ。そのときに市村正親さんとか園田裕久さんとか、相手がほしいわけですよ。でも役者には宴会芸にまでつきあうのは大変だと思いましたね。その頃は(!?)自己中でしたから。西村さんの芝居には勝てないけど、ほかの役者には勝つなと思っていた。裏方全員が一度、ステージで芸をやれるやつはやれと、それで賞を西村さんが出すということになった。当然おれがトップですよ。そのときに西村さんが「おまえ、こんなところで賞を取れるのは当たり前だから、次からは出るな」と言われた。そんなこともあったから、西村さんが宴会芸をやっているときに、アッシがひょいひょいと出ていって相手をつとめたんです。即興で。それが受けたもので、何かあると「大橋!」って宴会芸の時は呼ばれて、ストリップの白黒ショーみたいなものを西村さんと二人でやったりしましたよ。

金一 いまではみんな個室を与えられているけど、むかしはみんな大部屋だったから、必ず宴会になるんだよね。

大橋 それまで、アッシはスタッフの中ではちょっといじめられているところもあったんです。「おまえ、国立の大学出ておいて、そんなこともできないのか」とかね。そこでまともにケンカしても仕方ない。親分と近くなったら誰も文句言えないだろうと考えて宴会芸を一緒にやったら、ピタッと止まりましたね。夜中に二回くらい呼び出されて、西村さんは特攻に行っているから、予科練の訓練がどういうもので、どうやって自分が戻ってきたのかとか、そういうことをいまのドキュメント番組には出てこないようなことをいろいろ聞かせてもらいました。ある少年飛行兵が自分をいじめ抜いていた上官のところに、普通特攻機には爆弾は積んでいるけど機銃の弾は入れてない。それを自分で弾を込めておいて、上官の宿舎を機銃で撃った。そしてその上官は死に一方彼は、そのまま特攻に行ったそうです。特攻兵によるレイプも発生し、しかも女性家族は訴えることもできなかった。というような話も聞きました。そういう人の業のような話が多かったですネ。戻ってきたときに、海軍と陸軍が仲悪かったために自分が死にそうになったとか、そんな話を聞きました。最近になって、右とか左とか関係なく、その話の一部は伝えないとダメだなと思っています。

金一 それで、舞台監督を辞めて役者になれといわれたんだ。

大橋 なってたら人生変わってましたね。

金一 市村さんを超えていたかも(笑)。

大橋 当時はあいつもヘタでしたからね。あいつは酒を飲むと泣き上戸になって、「今日の芝居どうでしたかね?」って聞くから「まあまあやな」って言いましたよ。でも、劇団四季に行って、少し人気が出てきて、岸洋子さんの地方のコンサートのときに会ったんですよ。若い女優の卵みたいな子を連れてきていて、パッと顔を合わせたときに「よお! 大橋」ですよ。本当に明るく軽いやつなんですよね。

金一 おれも一度どこかのレストランだか楽屋だかで顔を合わせたとき、同じような感じだったな。

大橋 それがあまりにもあっけらかんとしているから笑ってしまいましたね。

金一 維新派をやって、そのあとテントをやって、プガジャのメンバーと一緒に動くようになって、あなたは雑誌では演劇担当だったの?

大橋 そうですよ。でも、すぐに辞めたというか、たぶん村元さんから見て、編集とかそういうものに「こいつはあってないな」と思ったんだと思う。取材に行って話を聞くとかはするんだけど、そのあとの仕事がいい加減だなと思っていたと思う。自分自身でもやってみたけどあんまりあってないなと思っていましたね。

1970.jpg

1970年代  の大橋さん

 

── 大橋さんがプガジャの演劇担当をどのくらいしていたんですか?

大橋 一年弱くらいですね。

金一 現場に出るようになったら、もうできないよな。だから、みんなそんなに長い間プガジャに関わることができなくて、目次に編集担当の名前が載っていたけど、創刊から一年間くらいでそこから名前が消えていくんだよね。

 

── 創刊からの一年くらいの間は、舞台の現場と雑誌の編集とが明確に分かれていなくて、みんなでやっていたんですね。

大橋 谷口博昭(同世代舞台監督,故人)が音楽をやっていたり、そのあたりはかなりぐしゃぐしゃな感じでしたね。でも、それが整理されるのは早かったですよ。舞台は舞台で時間の拘束されるし変則的だし、両立はできないですよね。

── 編集は向いていないとさっきお話していましたけど、当時もそう考えて舞台の方に向かったんですか。

大橋 アッシの行動を見ていて、たぶん村元さんもそう思っていたと思う(笑)。

金一 それで舞台監督を始めたわけだけど、あなたの初舞台は何だったの?

大橋 ヤマハのエレクトーンコンサートツアーですよ。急な話だったから、人手が足りなくなったんだと思うんです。それで、修から「行ってくれ」と。

金一 場所はどこだったの?

大橋 はっきり憶えていないけど、中国地方の広島とか。ゲストが出るじゃないですか。そのときのゲストが加藤登紀子さんだったんです。

金一 それは一人で行ったんでしょ?

大橋 はい。

金一 それまで舞台監督の経験はなかったんでしょ?

大橋 音楽のことは何にも知らなかった。東京に行って、パッと打ち合わせして、夜行列車で向かった。加藤さんはド近眼だから、瓶底みたいなメガネかけて何か難しそうな本を読んでるんですよ。そのときアッシは量子力学にちょっと興味があって、その手の本を読んでいたんです。それがちょっと目に入ったんでしょうね。それからポツポツ話をするようになって、何ステージかあったんですね。「あなた、大橋くんよね」「はい、大橋です」「あなたはこれからどうするの? こういう仕事を本気でやりたいと思っているの?」「いや、よく分かりません」、そんなやりとりをしたこともありました。

金一 でも、そのときおまえは夜行列車といっても、当時で言う三等寝台じゃなかった?

大橋 あまい! エレクトーンのときはなぜかグリーンだったんです。(インタビュー中に事務所に来ていた玉虫豊「同世代舞台監督」さんが参加)

玉虫 そうだった。イヤだったのは、北海道行くときに、おれはグリーンなんだけど、エレクトーンの先生は普通だったんだよ。

金一 それはいつの話なの?

大橋 71年でしょう。70年に指導教官が単位をくれなくて、一年ヒマだったから。加藤さんに聞かれたときも「まだ学生なんです」とか話していたし。

金一 エレクトーンを世の中に広めようというプロモーションだよね。

大橋 各地にエレクトーン教室はたくさんあるから、人はいっぱい来ていた。グリーンで行って、食事もホテルでサインだけでできるし、世の中にこんな気楽な仕事があるのかと思った。

金一 スタッフを大切にするという話は常に出ていて、当時のヤマハからしたら舞台監督は先生様なんだよ。

大橋 でも、アッシは舞台監督の仕事なんて誰にも教わっていないから、行って、「そろそろ1ベルお願いします」とか言われて、ビーッと押したら、「え? なんでそんなに短いの?」「あ、そうなんですか」とか言っていて、すごい不審がられた。こいつ、本当に仕事できるのかって。

金一 エレクトーンが初舞台で、吉本の仕事のことをどこかで書いていたけど、それは何の経緯でやった仕事なの?

大橋 フェスティバルホールに中瀬さんていたでしょう。あの人になんだか分からないけど「一緒に来ないか」って誘われて二回くらい行きましたね。吉本の西日本ツアーみたいなものに。当時、吉本は名古屋以西でしかツアーやってなかったんです。

金一 当時は道具は日本ステージで、吉本には舞台監督みたいなものはいなくて、中瀬さんがやったりしたのかな、手作りな感じのセットで新喜劇を持ってまわっていたね。

大橋 新喜劇、落語、漫才、手品、アクロバットとか色々あったな。そういう人と結構仲良くなって、アクロバットの人だけはいくら飲んでも決まった時間がきたらパッと寝るんですよ。なんでか聞いたら「われわれの芸は体調が何より一番だから。ちょっと悪いとバランス取れなくなる、体調管理しないとできない」って。もう無茶苦茶な世界だったね。

金一 それが日本ステージとのご縁の最初なんだ。

大橋 3時仕込みの6時半開演でした。2トントラックで一切合切でしたからね。

岡野 エレクトーンのときはまだ学生だったんだ。卒業はしたの?

大橋 しましたよ。その頃はこの仕事を本気でやろうとは思っていなかったから、70年のときには小学校の教員免許取って、採用試験にも合格していたんだから。それが単位が足りなくてダメになった。芝居が好きだったから大阪労演は二回生の頃から観に行っていて、搬入バイトとかやっていたんです。大阪、梅田サンケイホールとかきつかったですよね。

金一 劇場がビルの上の方にあって、渋谷パルコ劇場みたいに搬出入はクレーンでつり上げる小屋だったからね。

大橋 学生だったし、同じ学校で何人か集められるから声かけてもらってた。大阪労演と俳優座の野球の試合があると、メンバーが足りないと、「野球できるか?」「まあ、一応なんでもできますよ」とか言って、その時労演チームに入って、その時の俳優座のキャプテンが東野英治郎さんだった。

金一 むかしソフトボールとかやったとき、あなたは意外とできたよね。井出悟(同世代舞台監督,故人)はダメだったな。

大橋 井出は全然打てなくて、だんだんカッとしてきて、最後は「おれのバットのところに球放ってくれ」って言っていた。普段格好つけている井出がね。

金一 大橋、修は案外運動神経よかったね。大塚、井出はあまりよくなかった。

大橋 話が飛ぶけど、ハイファイセットやっているときに、野球の練習がやたらと多かったんですよ。あと、「死神」のときも。試合はあんまりないんですよ、練習ばっかりで。移動日とかはたいがい練習。

金一 西村さんが音頭取ってたの?

大橋 そう。監督が西村さんでキャプテンが園田さんだった。練習していると「センター! 声出せ!」とか、高校野球みたいなことやっていた。秋田に行ったときに地元のチームと試合をして、アッシが打ってホームインしたんですよ。そのときに手伝っていた子の中にかわいい子がいたんですよ。それで、そのまま「死神」チームには行かずに、相手ベンチのその女の子のところに行ってハグしたりして!?顰蹙買いながら、そんなの見て西村さんはニコニコしてましたね。

金一 でも、あなたはお酒は飲めないんだよね。

大橋 今も飲めないですね。一応アレルギーだけは10年前になくなったですが。

金一 飲めないのに酒の席にいるのは好きだったよね。

大橋 西村さんにも旅先で「どこか美味い店見つけてこい」と言われてよく行きましたよ!

仕事の要請はほとんど来なかったけど、裏の要請はいくらでも来ましたよ。

大阪でも希望者全員を飛田新地(遊郭)に連れていきましたよ。飛田新地のルールを模造紙に書いて教えて、料金はいくらでとか、一度決めたら変えられないとか、色々教えましたよ。アッシの同級生で飛田の近くのやつがいたんですね。あと、大学が飛田新地まで歩いて30分くらいだったんですよ。学生のとき、学生運動しているときは機動隊が入ったらおれは遊郭に逃げることにしていたの。あっち方面に行ったら警察も手を出しにくいし、遊郭の中は意外と複雑だから事前に動線を作るために飛田遊郭の自分なりの地図も作ったんです。だから、ルールだけではなくて地理的にも詳しかったんですよ。

金一 いろいろ疑問だったんだけど、舞台監督でもグリーンに乗せてもらえるような、緞帳の上げ方を知らなくても先生様の時代だったし、太鼓持ちの才能があったということなのかな。

大橋 それは西村さんの予科練のときの話を聞いて、そういうことをするようになりましたね。西村さんは予科練に入るときは芝居していたから、学生のときは左翼系の演劇サークルだったんですよね。だから、滅茶苦茶いじめられたわけですよ。おまけに学生結婚していたんです。それで、半殺しになって「おれはもうあかん」となって、このままいったら死んでしまうと。どうしようと考えたときに、自分ができることは芸だと、基地の一番えらい人、佐官クラスですよね、その人たちのところで「西村、これから裸踊りいきます!」と叫んでやったそうです。それで「おもしろいじゃないか、こいつ」となった。その話がとても印象深かったんです。

金一 あなたはお酒も飲まないのに一緒にご飯食べて、食べるとどこかにいなくなるでしょう。さっきの遊郭の話でも、みんなを連れていっても自分はそういうことはしないわけ。クリエイトの社員旅行でも似たようなことをしていた。本当に太鼓持ちに徹しているというかね。

大橋 クリエイト大阪の社員旅行で行ったタイのパタヤビーチでも連れていきましたよ。

金一 そういうことって分かる気はするんだけど、普通だったら一緒に遊ぶでしょう。なんで一緒に遊ばなかったの?

大橋 やっぱり行った以上、何かあったときに動ける、みんながそれなりに楽しんで、最後にみんながちゃんと出てくるまでは自分が見ておかないといけないと思うんですね。

金一 それじゃあ制作者じゃない。

大橋 そうそう。自分も遊んでいてトラブルがあったら遅れるじゃないですか。

金一 でも、その時分の歳だったら一緒に遊ばないなんて、考えられないけどな。

岡野 修さんが話していたんだけど、黒テントのポスター張りしていて、警察に追いかけられたんだけど、後ろに大橋さんがいたから一緒に捕まったって本当なの?

大橋 間違いではないんだけど、捕まったというよりはおまわりさんも「こんなことしたらあかんのは分かってるだろ」みたいな感じで、別に対決みたいになっていたわけではないんですよ。

岡野 連行されたわけではないんだ。

大橋 そんな対決姿勢だったら鮮明に憶えているはずなんだけど、修の発言を読んで「そんなことあったかな」と思うくらいだから。玉虫の話の、ダークダックスのコンサートで緞帳降ろすのを忘れたこともすっかり忘れてた。まあ、それくらい舞台監督に向いていなかったといえば、そうでしょうね。

岡野 「死神」は何年で何本くらいやったんですか。

大橋 たぶん80本くらいはやったと思いますよ。ヘタしたら100本くらいかも。2年間でそのくらいやったんだよね。移動にしても、当時は新幹線も限られていたし、岡山くらいまでしか通っていなかったし、移動だけで一日つぶれることもよくあった。

岡野 2年もやっていたら親密にもなりますよね。でも、よくブッキングできましたよね、当時。

大橋 やっぱり労音がそれだけ強かったということだし、オールスタッフも相当力を入れていたんじゃないのかな。制作はオールスタッフだからね。西村さんやピンキーとキラーズが解散したばかりのピンキーとか、ジャズボーカリストで当時ナンバーワンだった笈田敏夫さんや楠トシエさんが入ったりして、メインのところでは生バンドでやっていて世良譲さんとかが入っていた。東京、大阪、名古屋とかでは生バンドでやった。

岡野 その後、「おれたちは天使じゃない」なんかも谷口さんがやっていたけど、それも1年以上まわっていましたよね。

大橋 あの頃は「国産のミュージカルを作ろう」、外から持ってきたものをただ翻訳してやるだけではなくて、日本人の性質というか日本の生活や文化をベースにしたものを、日本の音楽で日本的な表現で作ろうという強い思いがあった。それはどこか70年あたりの運動、アングラ、前衛というところとリンクしているんだと思うんです。自分たちのものを作ろうという機運の中で個人プロデューサーが出てきたりして、オリジナルのミュージカルが作られる。この間「死神」の再演を観に行ったけど、ミュージカル一本作るとなると曲数だって半端な数ではないでしょう。そういうところもゼロから作っている。やっぱりストーリーにもきちんと乗っているし、詩もメロディも。あと、「見上げてごらん夜の星を」のミュージカルをやったじゃない。南沙織さんとフォーリーブスが主演で。それも「死神」でお世話になったスペーパカンパニーの遠藤さんや制作の黒須さんから来たんだと思う。

金一 黒須さんというのは大阪労音でほとんど一番最後に辞めた一人で、ソーゴーへ行ってクロスポイントを作ったのか。

大橋 そのときのチーフが三田村さんで、かれは遠藤さんのグループに所属していた。そのミュージカルでも色々勉強した。

金一 それは再演のやつでしょう。

大橋 そうです。金一さんは初演をやったんでしょう。

金一 実際にはやっていない。大阪労音の先輩がミュージカルみたいにして作ったものの一つだから、坂本九さんは何度か仕事をしたけど、それはやっていない。いずみたくさんが「死神」よりも前に永六輔さんと作ったものの一つだよね。新しい「死神」はおれたちがやったときよりも、よくできていた。

大橋 テンポはよかったね。

岡野 いまの時代に合わせてきたんでしょうね。

金一 本を作り直しているね。われわれのときは同じ落語を元にして、今村昌平さんが作ったオペラを藤田敏雄さんが本にして、いずみたくさんが音楽をやった。今回は水谷龍二さんの新しい本だったね。われわれのときは時代も飛ぶし場所も飛ぶという、日本であったり日本でなくなったりしていた。

大橋 明治時代になったりしてね。今回のものはいまの時代でずっと通しているから分かりやすいし、見やすくて乗りやすい。それと役者さんが、当時の西村さんもまだ若いし体も切れていたから、動きも派手だったよね。

金一 今回は左とん平さんが主役なんだけど、葬儀屋だったりして、なんだかぴったりというかね。本も新しくて音楽も新しい人が作っているんだけど、ミュージカルは筋にあわせて詩が出来上がるから、われわれがやったときの曲は3曲しか入っていないね。だから、いずみたくメロディとしては数が少ないんだけど、一観客として観たら、よくできていたと思う。

大橋 曲としては、今回も採用されているいずみたくさんの曲はいい曲だと思った。結局、日本の音楽シーンの中で国産ミュージカルの曲の中でスタンダードになったのは「見上げてごらん夜の星を」ぐらいでしょう。やっていたときもそう思った。そして3.11直後にサントリーのCMで流れていたのも印象的だった。

金一 南沙織さんのソロコンサートもうちでやったよね。

大橋 アッシと大塚でやった。あれは井出のラインですよ。井出がやっていた西城秀樹さんからの流れですね。

岡野 大橋さんは西村さんに「おまえ、役者やれ」と言われたにも関わらずこっちの道に進んだんですね。

大橋 「いやあ、ちょっと考えます」とか言ってね(笑)。本当にあの中では西村さん以外の誰にも負けない芝居はできると思ってましたよ。ここでそのまま芝居したってこいつらには負けないって。下手くそだなって思ったましたから、本当に。

金一 すごい自信だよね。

大橋 一応アングラ劇団で鍛えられましたからね。ただ、西村さんを見てすごいなと思ったのは、どんなに体調が悪くて体がきつくてもシッカリ芝居をするとか、本番が終わってもツアーリーダーとしてほかのメンバーに気を遣ったりとか、自分はそこまで24時間中できるのかと考えて、躊躇するところがあったんです。いまのアッシにはそんなことまではできないと、でもやる以上はそこまでやらないとダメなんだろうと思いました。

金一 「死神」は全国公演が48回、1972526日から810日まで。多分、都市センターもやっているんだよね。文京公会堂(両劇場は現在解体)もやって、また都市センターに戻って、これの全国公演もやっているよね。西村さんのシリーズに関してはうちが全部やっているんだよ。それに大橋さんが全部行ったわけだ。

大橋 アッシはずっと小道具担当だった。新劇でいえば演出部。舞台監督だけど、その中でも小道具。

金一 分かれていたからね。岡野さんたちがやった普通のコンサートでも舞台監督一人って経験しているでしょう。

岡野 はい。

金一 あんまり大きい荷物にしてしまうとダメなんで、だけどミュージカルだけはそうも言っていられないので、大道具として何人かとか、舞台監督の数も多いよね。小道具も多かったよね。

大橋 一人でロウソク100本に火をつけてとか、やりましたね。西村さんが最後にその火を消すんだけど、息をフッと吹きかけて消すのが所作的に格好悪いと思って、ロウソクの上半分を斜めにカットして、上下させると自然に火が消えるように加工したんです。「おまえはこんなこともできるのか」って西村さんも喜んでました。

金一 当時としては禁止行為解除、まだうるさいときで、本当の火、ロウソクや歌舞伎の鬼火は使うわ、火薬でバンバンやっていたから、その許可も取らないといけなくて、消防署へ行って説得するのに胃が痛くなったよね。

大橋 大阪では千日デパートの火災でたくさんの方が亡くなった後だったから、とても厳しかった。演出家はそれができないと舞台が成り立たないとか言ってね。あと、火薬玉の発注間違いでハンダ付けしないといけなくなって、金一さんがプガジャのみんなを呼んで楽屋でハンダ付けしたりね。

金一 そんなこともあったなあ。

大橋 空中遊泳用のフライングのベルトをなくして、急遽新しく作ったんだけど、新しいものだから股に食い込んで痛いと西村さんに怒られた。どこにしまったのか忘れてしまったんだけど、本番の客入れする直前くらいにそれを見つけたんですよ。どうしようかと思って、ただ「ありました」と渡しに行くのもおもしろくないから、衣装の人に霧吹き借りて水をたくさん顔に吹き付けて、舞台の袖でダンダンッて足音を立てて「西村さん、ありました!」って。「おまえ!」って言われたけど、それでOKだった。

金一 まったく芝居がかっているよな。

大橋 明るく終わった方が気持ちがいいでしょう。ちょっと制作的かもしれないけど、そういうちゃらい芝居をして「このあほんだら!」で終わってもらった方が西村さんにとっていいだろうと。まあ、それでかわいがられた部分もあるんですよね。

金一 うちの舞台監督の中にも何種類かいて、岡野さんとかもそうだけど、大半は才気や知力みたいなもので仕事をするタイプと、人から愛されるキャラクターでするタイプもいるんだよね。たとえば、宇田っちとか広瀬、星野(同世代舞台監督,現在茶店店主)とか。生きていく道としてはそういうこともあるんだよね。

大橋 NHK美術センターの浜川さんとかね。失敗も多いんだけどあのキャラクターだからっていうのがあるんですよね。

金一 時代も時代だったんだけど、舞台袖で寝ていて、どうしてそれが許されるのか。いまだったら考えられないじゃない。まあ、始まってしまえば寝ていてもたいして問題にはならないんだよね。大橋さんはそれが許されたというのは「なんでやねん」と思うけどね。寝ているヤツなんか今度から連れてくるなって思うじゃない。でも、それが成り立っていたのはどうしてなの?

大橋 だいぶ経ってから分かったことで、谷口のことにも繋がるんですけど、かれは舞台監督だったなと思うんです。細かくきちんとやって、本番中もずっと見ていて細部をどんどんつめていく。でも人はそんなにオールマイティではないから、その代わりにかれは大きな流れとか全体の段取りというところはちょっと弱いなと感じてました。かれは「なんでできないんだ!」と怒鳴る場面がとても多かったね。それでかれに対してムッとなるわけではないんだけど、「言われたことは分かるけど……」ということが見ていてもあったんです。自分はそういう細かいところや専門的な部分は弱いんだけど、全体を見る感覚はそれなりにあったかなと思いますね。開き直りではないんだけど、「うまいこといってるんだからええやん」で寝てしまうんです。だからといって、緞帳のボタンを押し忘れたことはないんですよ。一度だけ、これはもう辞めた方がいいのかなと思ったことがあって、それはふと気がついたら客席が拍手していて、終わっているんですよ。そのときに恥ずかしかったんですけど「この緞帳降ろしたのおれですか?」って聞いたんです。ちゃんと主幹スイッチも押して、タイミングで緞帳を降ろして、それでまた主幹スイッチを切って、その間ちゃんとしているんですけど、切ったあとまた寝てしまった。そのときはちょっと考えましたね。一回だけでしたけどね。

金一 主幹スイッチというのは、安全を守るためのもので、なにかを動かすときにはそれを一回押さないとダメだったんですよ。メインスイッチで起動させるような感覚だね。

金一 大橋さんは人から愛されるというか憎まれないというか、仕事の切れない舞台監督ではあったけど、眠くなるっていうのは夜にどこかへ遊びに行っていたんじゃないの。みんなヒマなものだから何回か大橋のあとをつけるということをしたことがあった。おれのところで飯喰って、井出さんはジグソーパズルとかやるわけですよ、一人で。でも、大橋さんは「じゃ」とか言っていなくなるんだよ。だから「つけろ」って何回かやったんだけど、まかれてね。いまだに何をしていたのか分からない。

大橋 当たってるところと外れているところがあるんだけど、「死神」のツアーに出たときに、小道具の仕事をどれだけ手を抜いても出来るかをやってみようと思ったんです。それは楽をしたいとかではなくて、せっかく来たその土地を知りたいと思ったんです。

金一 徘徊するってことね。

大橋 はい。その頃は11時仕込みじゃないですか。行くと労音の会員の方が手伝いに来るんです。そこが肝だったんだけど、見ていて機転の利く人は誰かを見定めて、その人に小道具を手伝ってもらうんです。勿論知らない人でも手伝ってもらえるような準備だけはしっかりして。それで、手伝ってもらいながら「コーヒーの美味しいところない?」とか街の情報を聞いたり、人口が増えてるのかとか色々地元情報とか聞くんです。それで仕込みが終わってリハが始まるまでとか、リハーサルが終わって本番までの時間とか、そういうあいた時間にちょこっと出ていって街の様子とか街のでき方、川沿いに飲み屋が多いとか、そういうことをいろいろ調べたりした。それが夜に旅館の飯を食べてから飲みに行くときに役立つわけです。翌日が移動日でそれまで時間があると、前日に手伝ってもらった子がかわいい子だったら「ちょっとお茶飲みに行こうよ」とか言って会ったりね。それはナンパするというよりも、その土地を知りたかったんです。そんなことを大阪の産経新聞の人に話をしたら、そのことを書いてもらえないかと言われたんです。結局書かなかったんですけど。それまでは時刻表も地図も読めなかったのが街の成り立ちが肌で感じて分かるようになったんです。

金一 人間ナビだね。大塚さんがクリエイト通信をやり始めた頃に、大橋さんに聞いてどこの何が美味しいとかいった記事をやろうと話をしていたよね。

大橋 ツアー終わったときに西村さんが一つだけほめてくれたんです。「舞台監督としての才能はもちろんない。役者としては可能性は感じられる。もうひとつ、おまえに感謝することがひとつある。このツアーが終わったときに痩せているやつが一人もいなかった」って。だいたいツアーに出ると、スタッフは偏食になりがちだから痩せていくらしいんです。いつも店にみんなを連れていったときに、アッシが強引にメニューを決めて、野菜とか栄養バランスを考えて注文したんです。一応、大学で食品学もやっていたので、そういうことも参考にしてね。そこを西村さんは見てくれていて、体調悪くなったり痩せたりするやつがいなかったことをほめてくれたんですね。函館かどこかで、本番前にストリップショーにちょこっと行って、ホールにあわてて戻った時には開演2分過ぎだった!

金一 それで、あなたが制作者としてやるようになった最初は何なの?

大橋 ユーミンですね。ユーミンをやるきっかけは、これもやっぱり「死神」なんですね。そこで遠藤さんにかわいがってもらってて、遠藤さんの紹介で水上勉、作「越前竹人形」をやって、そこで田村に会って、田村のいたあべ事務所にユーミンがいたんです。

金一 あべさんはゼネラルスタッフだよね。事務所は日生劇場の中にあって劇団四季の営業課みたいな役割を果たしていた。そこの紹介だったんだ。

大橋 田村と仕事をしたあと、たまたま中央線で会ったんです。「田村、おまえいま何してるの?」「いまはユーミンとハイファイセットやってる」「ああ、そう」とか言ってそのときは別れたんだけど、しばらくしてから「大橋、相談があるんだけど。ユーミンやってくれないか」、それがちょうどユーミンがドーンとブレイクしはじめたときですよ。荒井由美さんとしての最後のコンサート(このライブのすぐ後結婚そして松任谷性に)そのファイナルライブがNHKホール、そしてそれが初めてポップス系のミュージシャンがやるライブということで、演出、振り付けが村田大さん、照明は吉井澄雄さん、セットが朝倉摂さん。もう、あべさんが自分の持っている大カードを切りまくったわけですよ。それで、田村から横浜の神奈川県民ホールでユーミンのコンサートやるから観に行ってくれと言われた。どんなアーティストか見てくれということですね。イントロがはじまって舞台袖から出てきたんだけど、それは当時のフォーク系の人からしたらあり得ないものなんですよ。それで歌いだしたらびっくりした。世の中にこんなにプロで歌が下手な人がいるんだと。ルックスも美人系とはちょっと言いにくい。でもファッションセンスはいいんですよ。それとやっぱり華がものすごいあった。それまで仕事させてもらったり、観客として観てきた中でも一番華があった。だから、てっぺんまでこの人はいくかもしれない、この人とつきあってみたらおもしろいかもなと思うところがあって、それで俄然やる気になってしまったんです。NHKでは散々いじめられましたよ。ホール側としてはコンサートとかやったことないから宙づりとかも経験がないし、役所みたいなことを言い出したんですね。

金一 まだその当時の宙づりなんて、おれらがやる程度のものなんだから、たかが知れてるよな。

大橋 もうお役所みたいな言い方で、要はやらせたくないの。でも、もうニュースではニューミュージック系のコンサートがはじめてNHKホールでやるって話題になっていたわけですよ。でも、本人がやりたいことがなかなか通らない。吉井さんが一緒に打合せにいらっしゃって、ホール側と何キロまで吊れるとかやっていたら、突然吉井さんがムッとして、普段だったら「大橋!」「ハイ」みたいな感じだったんですがNHKホール側に「あなた、これが吊れるかどうか分からないとか言っているけど、それはあなたの権限なの? 舞台監督の大橋さんがやりたいってちゃんとお願いをしているわけでしょう」と言い出して、そういうときにはちゃんとこちらをリスペクトするように「さん」をつけてきちんと話をされて、かっこいいなあと思った。もちろん、仕事を見ていて素晴らしいと思いましたよ。ライトブルーの透明感のある色とか。ちゃんと人の立場を考えて、きちんとものが言える人なんですよね。アッシみたいなキャリアがまったくペーペーのことでも。そこで、吉井さんに相手の立場を尊重するということを直に教わりましたね。

金一 じゃあ、ユーミンは舞台監督として入ったんだね。

大橋 そうですね。

岡野 NHKホールは76年の11月なんですね。

大橋 プガジャのアメリカツアーから帰ってきて、すぐの仕事ですよ。

金一 大橋さんは何回目に行ったの?

大橋 二回目かな、玉虫のあとですよ。玉虫が最初に行ったんですよね。

金一 あいつは二回行ったらしいよ。一回は自費で行ったみたいね。

(*最初は自費で、二回目はスタッフで。76年に大橋さんが行き、77年に玉虫さんが行った、と書いてある。)

大橋 アッシはツアーの二回目の時に行ったんだと思う。まあとにかく帰ってきてすぐにやったんです。

金一 そのときは居眠りしなかったんだ。

大橋 できませんわ。金一さんにも手伝ってもらったじゃないですか。

金一 そうだっけ、なにも憶えてないな。

大橋 あのときはオーケストラも入っているし、すごい仕掛けだったんです。マンちゃん(松任谷正隆さん)はオープニングにパイプオルガンで「翳りゆく部屋」を弾くし、一人ではとてもできなかったんです。それで金一さんに相談して手伝ってもらった。おれは客席にいて、金一さんが舞台袖から「パイプオルガンはそっちから見てどうだ?」とか、アッシが客席側から見て指示を出せという感じのことをしてくれて、そういうことがあったからなんとかできたんです。おまけに摂ちゃんのも本番中常に風船が浮遊してたりするモダンアートバリバリのセットだった。

金一 NHKホールの一回だけだったの?

大橋 そのときはそうです。結婚前の最後のコンサートで解散になったので、もうそのあとは関係ないなと思っていたんですけど、しばらくして結婚後にまたツアーをはじめるということになったんです。

金一 それはどのくらいあとのことなの?

大橋 一年後でしたね。ミュージック・アンド・リミテッドで2本、その後ミュージカル・ステーションが制作となりました。

金一 金子洋明さんだ。

岡野 「OLIVE」はもっとあとじゃないですか。

大橋 そうだったかなあ。やっぱり初めが「OLIVE」次も伊集院静さん構成、演出で「マジカルパンプキン」……。

金一 「マジカルパンプキン」は中野サンプラザでやったでしょう。それは観に行った。

大橋 象が出たりしましたネ。

岡野 「コバルトアワー」は75年なんですよね。(注、荒井由美最後のツアー、アッシはやってない。)

大橋 それで76年が結婚で荒井由実さん最後のコンサート。それから一年くらいブレイクがあって、松任谷由実としてのコンサートをミュージック&リミテッドが制作、次がミュージカル・ステーションそしてハンズへと続くんだなあ。

金一 それもサンプラ?

大橋 そんな気がするけど。

金一 そのときもまだ舞台監督なの?

大橋 そうです。制作は金子洋明さんがいて岡田さんが入っていた。そのときに、おれは金子さんのところはダメだな、合ってないなと判断したんです。道具の安全のことなどを考慮する感じがアバウトで、(多分アッシの思い込みもあったと今では思ってます。)女性のタレントをやっているのに、こういうところをルーズにしているのはあかんなあと思った。生意気なんですけどね。

金一 その頃から林だったの?

大橋 林光政さんはミュージカルステーションで来たんだけど、おれはユーミンと話して「おれはあの人はバツです、合っていないと思う。自分の世界をやっているだけで曲とコミットしている感じがしない」と言いました。おれに相談するくらいだから、どこか違和感があったんでしょう。結婚後の最初はミュージックアンドリミテッド新田さんのところでやって、そのあとにミュージカルステーションになっているんだけど、そのときに、その前にやっていた制作スタッフで唯一ユーミンからアッシだけオーダーがあったという話です。金子さんに対して、舞台監督だけは変えずにという話があったんでしょう!?聞いてないけど、ほかのスタッフは全員外れてましたからね。当然、ほかのスタッフは全員ミュージカルステーションだった。PA、照明、道具。打合せに行ったら以前のスタッフはアッシだけだったんですワ。その前の会社が倒産して、アッシはそことの契約だったから金が入らない。でも、アッシは業者さんには全部払ったんです。それである程度用意していた結婚資金が全部なくなってしまいました。結婚するにも金がなくなって、一人フラフラ新宿を歩いていたら前を歩いていた男が給料袋を破って捨てたんですね。それにパッと目がいって、なんだか悲しくなったのを憶えてますよ。

金一 また芝居がかってるなあ。

大橋 そのあとミュージカルステーションになって、二本くらいでミュージカルステーションは終わっているはずなんです。そのあとは基本的に雲母社になるんです。

金一 雲母社は自主制作ということだけど、分からないから大橋さんに一任してやってもらうことになったわけだね。

大橋 成り行きでそうなった。それともう一つ、制作になったきっかけは、舞台監督をやっていて自分で向いてないなと思ったんです。別の言い方をすると、金一さんにもなれないし、谷口にもなれないということ。じゃあ、アッシはこの中で何か役に立つというか、やっていけることは何があるのか考えた。当時は舞台監督は舞台の袖から見て全体の流れを把握するというのが一般的でした。段取りや手順などの細かいところにはすごい目がいくんですけど、客席から見て手順的にはイマイチかもしれないけど、客の反応、楽しめているのかなとか、楽しませるにはもうちょっとこうした方がいいのかなとか、演出でもない舞台進行でもないところで隙間を調整することってあるんじゃないかと。客席から見ることによって、より伝えたいものをお客さんに届きやすくする。段取り的なこともそうだし演出的なこともそうだし、お客さんの生理も感じながら、より楽しみやすいように、より届くようにする。そこにはまだ隙間があるんじゃないかと思って、アッシはとにかく客席に出ようと思ったんです。客席で見る舞台監督になるというか制作監督になるというか。ということは、舞台袖で見る舞台監督もいるんですよ。ユーミンで大塚さんに来てもらったりとか、その後ほかのところでもその方式が広がったように思います。客席から見ることとスタッフの選択といったことですね。

金一 それをどのあたりからはじめたのかははっきりしないけど、雲母社がやるようになってからだよね。

大橋 たしかにそこから本格的になった感じですね。

金一 いまの岡野さんと違うのは、たぶんお金を具体的には握っていないよね。

岡野 直接には、そうですね。

金一 客席にいるという立場はほとんど変わっていないと思うけど、お金のところには基本的に入らない。いまよく言われるけど、技術監督という呼称を使ってやっている人がいるけど、たぶんそういう位置なんでしょうね。

岡野 ぼくは舞台監督だとはあまり思っていないですね。

金一 プロダクションマネージメントみたいなことなんだけど、実際にお金はいじらないということでしょう。

岡野 整理だけしてあげて、あとはやってくださいという感じですね。

金一 大橋さんの時代はどちらかというと雲母社はまったく分からないから、大橋さんがすべて処理してたわけだよね。お金に関しては、当時はレコードも売れたし、スポンサーもつくし、どちらかというとコンサートは赤字になってもいい、お金はかけ放題みたいなところはあったわけだよね。

大橋 そうですね。制作予算は10億超えていましたからね。

金一 その次は何をやったの?

大橋 ハイファイとか岸洋子さんとかじゃないですかね。岸さんは長くやらせていただいていたし、ハイファイは制作ではなかったですね。あと大きなプロジェクトでいうと、米米クラブとか。

金一 それはもっとあとでしょう。高橋真梨子さんは?

大橋 真梨子さんは大道具、美術やデザインは担当したんです、お金もふくめて。照明はプロダクションから来ていたり、ケースバイケースでやっていましたね。

金一 TUBEは?

大橋 あれも美術、電飾とか特殊効果とか。音響と照明はプロダクション側がやっていた。

金一 そこでもさっき話していた客席から見るという立場は変わらないんでしょう。

大橋 はい。ステージ袖にいる、いわゆる舞台監督は別にいた。TUBEの場合だったらなべさん(渡辺登)だったりとか。

金一 大橋さんの年収はわたしをはるかに超えてクリエイトの中ではダントツのトップが20年近く続いたくらいなわけだから、それはつまり制作、お金をいじるということがない限りあり得ないわけだよね。

大橋 一番仕事が多いときを見たら、一年間で初日を40本くらい開けている。それが3年くらい続いた時期があった。丸々制作をやったのは大江千里さん。彼もホールツアーやったあとにスタジアムでやったりとかしてましたからね。現場は星野がやっていた。あとは今井美樹さん。ハンズ制作ですけど、色々やらせてもらってました。

金一 菊池さんとのつながりということか。

大橋 菊池さんはユーミンがきっかけでですね。

金一 わたしが聞きたいのは、制作者として評価されるのは、あなたが自分で言い出すわけにはいかないから、そこをサジェストというか後押しをしてくれた人たちは、何を契機にして誰だったのか、ということなんだよね。

大橋 ケースとしてはいま言ったように、美術だけのものやPAなどもふくめたものやいろいろあるんだけど、坂本龍一さんのツアーだとか、ニューヨークのツアーや。

金一 それは誰の紹介なの?

大橋 キョードープロダクションにいた遠山さん。これも知り合ったきっかけはユーミンですけど、遠山さんの方から話をいただいた。

金一 それは修がYMOをやる前だよね。

大橋 いえいえ、あとです。修が一回シリーズ終わって、坂本さんはソロライブを再開して少し経った頃だったと思う。アカデミー賞を取ったりとか、そんな時期だった思います。そのあとは来るものってだいたい制作的なものになっていましたね。

金一 その坂本龍一さんのときも同じスタンスだったの?

大橋 はい。現場はニーナ(故・蜷川)にやってもらってました。ニーナには結構いろんな仕事をやってもらった。

金一 そうやってあっちこっちで部分的に制作みたいなスタンスでやっていたのか。もうそのときにはすでに一般的な意味での舞台監督はしていないでしょう。

大橋 舞台監督の期間は短かったですね。

金一 ユーミン以降はほとんどやっていないよね。

大橋 そうですね。皆無に近いですね。だから、金一さんから直接仕事をというものは岸洋子さんとか、ちょっと違うけどハイファイセット。これは今井照明さんからだと思うけど、そういうところまでです。あとはほとんど制作的なものでしたね。

金一 でもハイファイセットのときは現場にいたよね。

大橋 そのときはまだやってましたよ。袖でしょっちゅう寝ていて怒られてましたよ。

金一 制作としてほとんど全体を背負ったのは米米クラブってこと?

大橋 ユーミンでもやっていたし、いまちょっと思い出せないけど、直接アッシに来た仕事はほとんど制作で受けてました。EPOとか。とにかく、来るものはそういうオーダーで来ていたんです。ユーミンのときからそうでしたけど、心がけようとしたのは、演出的なこと、演出家が減っていくじゃないですか、演出家を入れたようなスタイル、構成山川啓介・演出渡壁というようなスタイルが減って、クリエイティブな部分が弱ってきているなと感じていたんです。修はちょっと勘違いしているかもしれないけど、アッシは逆に言うと、それこそ「死神」「おれ天」「アンパンマン」、そういうミュージカルの手法とかいうものを自分が制作するコンサートの中に取り入れていたんですよ。

金一 「アンパンマン」はやったんだっけ?

大橋 初代舞台監督です。

金一 そうだっけ? 斎木の印象が強いんだけど。

大橋 斎木はアシスタントです。それがアッシの舞台監督最後の仕事です。

金一 伊豆の伊東で初日開けたやつ?

大橋 はい。あのときにキノ・トールさんが「あなたは東京の人だよね?」「いえ、大阪ですけど」「あなたは全然大阪という感じが出ないですね」なんて会話がありましたね。毎日アンパンの差し入れがありました。あれはオールスタッフの制作で、いずみたくシンガーズのメンバーが出ていた。話がそれましたね。制作としてお金を扱いましたけど、仕事が来たときに単にお金を扱えるということではなかったと思っているんです。このステージ、このアーティスト、このタイミングだったらこういう人に入ってもらった方がいいんじゃないか。コマーシャルのアートディレクターに来てもらった方がいいとか、いろんなことを考えたんですよ。自分たちだけでやっていたら絶対にクリエイティブが細るから、だからオーダーが来るときはアーティストのライブをにふさわしいオリジナリティー言いかえれば一点ものを期待しているんじゃないかと、そういう感じもあったんです。アーティストプロデューサーはいままでに出会わない人と出会える、自分をもっとかっこよく見せてくれる人との出会いを作ってくれる可能性の提供をアッシに期待されていると思っていました。だからもっとクリエイティビティを上げたかったし、自分の中でこの人にはこういう人に来てもらった方がいいんじゃないかとか、舞台以外のクリエーターにも声掛けしました。当然失敗もありましたけどそういう姿勢で積極的にやっていました。ユーミンの葉山のコンサートのときに、結局成立しなかったけど、『ロッキー・ホラー・ショー』のイギリス人の照明家を連れてこようとか、ユーミンもそれにワーッと乗っかってくれたし、「大橋さん、そういうラインあったの!?」とか。コンサートとかとはまったく別のラインでつながりがあったので、「いっぺん見に来てくれ。見て気に入ってくれたら相談したいことがあるから」と。そんなことは当時からやっていたんです。お金のことよりもクリエイティブなこと、ビジュアル的なことがメインになりますけど、いままでと違うものを提供しようと。当然そういうスタッフはアッシが手配する事になる。それでお金のことにも関わるようになったりした。

金一 それが制作者としてうまくいった要因のひとつだろうと分析しているわけだ。

大橋 そうでなかったらここまで来ていないと思う。

金一 間違いなくあなたは新しもの好きだよね。絶対に新しいものは手に入れているし、やってるね。その代わり長続きしない。なんでもかじってるよね。

大橋 毎年かみさんと海外に行って、彼女はアパレル関係にいるし、おれはエンターテインメントだけど、海外の街の風俗とか人の気配とかそういう情報を仕入れてくることがあったわけですよ。その頃色んなものを観たり、試したりしたけどやはり人が一番面白かった。それとリハーサルのやり方ですけど、おそらくホールを借りて本番通りのことをやるということをはじめたのもユーミンだと思うんです。初日の前に準備として本番通りのサイズと空間でリハーサルをやるとか。最初はケチョン・ケチョンに言われましたよ、何たってお金も時間もエネルギーがいっぱいかかりましたから。

金一 それはもうみんな思っていたんだけど、逆に言うとそれができるようになった時代、レコードが売れたり印税が入ったりしてお金がたくさん入ってきたことが可能にしたことだよね。

大橋 それはもちろんそうです。それと、ユーミンと出会ったときに、失礼だけど歌唱力があるわけではないのにこれだけ説得力と華がある、本人もいろんなことがやりたい気持ちがあった。演出内容がドンドン複雑になってきてホールを借りてリハーサルをしないと初日を開けられない。このことを提案したら本人も理解してくれた。

岡野 だから、お金はそういった時代の流れから生まれてくるものなんですけど、

アーティスト自身が表現者として歌とかそれ以外にもっと発散するものが当時は増えてきたとは思うんです。パフォーマンスとして。それと大橋さんの発想とかリンクしたんじゃないかなと思いますね。

大橋 それと、ユーミン自身はある意味シンプルで強い部分をもっている。人気者でいたい、話題の中心にいたい、みんなからいつも見られていたい、そういう欲は尋常じゃないくらい大きかったと思うんです。だからいままでもトップにいると思うんです。アッシがホールリハをやりたいと言ったときに、アーティスト側としても劇場借りてやりたいということを言ってくれないと通らないですよ。そういうアーティストと出会ったということは大きいですよね。それがきっかけとなってほかの人も真似てやるようになるし、いまや当たり前のことになっているけども、日本の経済じゃないですけど、レコードの売上もよくなったというだけではなく、いろんなことがリンクしていたんだと思います。

1980.jpg

80年代 クリスマスパーティーにて

 

金一 制作でユーミン以外に思い出す人や印象に残っていることは? 米米とか?

大橋 まあそうですね。米米とユーミンはビジュアル的なな面が大きかったですね。米米クラブが出てきたときに、音楽シーンが変わるなという予感はしましたね。まったく違う新しいタイプで、楽しませるということをこれだけ割り切ってできるアーティストが出て来た!

金一 あなたは肯定的に見ていたんだね。ピンクレディーが出てきたとき、おれたち全員「こんなもの、どうにもならんだろう」と思ってた。井出さんもそう言っていた。やれと言われたときに「うーん、こんなのどうすればいいんだ」と思っていたけど、われわれの予想に反してあれよあれよと音楽シーンを席巻したわけだよね。米米の場合は、大橋さんが自分で「これは音楽シーンを変える」と当初から認識していたの。

大橋 はい。レベルはちょっと違いますけど、大江千里さんもそう感じたんですよ。米米を最初に見たのは大阪のライブハウスです。ガラガラなんです。でも必死に客を楽しまそうとしている。もう、吉本なんですよ。

金一 米米を観に行ってくれって誰に言われたか憶えてる?

大橋 当時キョードープロモーションにいた遠山さんです。

金一 話を聞いていると遠山さんとか菊池さんが大橋さんをいろんなところに紹介したりくださった人たちなんだ。

大橋 そうですね。米米やEPOもそうだったし、坂本龍一さんもそうだった。大江千里さんは船橋さんというソニーにいた方が変わった人で、初対面で話をしていたら、途中で「分かりました。制作してください」「初日いつですか?」「一ヶ月後」とサラッと言われてビックリしたけど。とにかく、楽しませるんだと。それは能書きではなくて血に入っている、楽しませないとどうしようもない、そういう人がドンドン出て来た。

岡野 ピンクレディーはお茶の間に溶け込んでいったんですけど、あの娘たちはやらされている感じが強かったですよね。スタッフに操られているような。

米米とか千里さんとかは自分から出てくる部分が大きいですよね。テッペイちゃん(カール・スモーキー石井)は自分で絵を描けるしデザインもできる、要するにアーティスト、クリエイターですよね。

大橋 当時から思っていたけど、ビートたけしさんを継ぐのはテッペイちゃんだと思っていましたよ。それくらい才能があったんです。でもかれはソロにならなかったからネ。あの人のデザインもすごかったけど歌っている合間の一人芝居もすごかったんです。ネジ屋とかいって、町の小さな店でネジを売るおっさんの役をやるんです。最後に自分の体がどんどんネジになっていくんだけど、見ていたら本当にそう見えてくるんです。こんなことできるパフォーマーが日本にも出てきたんだと思った。もちろんペラ(しゃべり)もできるし。

金一 イッセイ尾形さんみたいなところがあるのかな。

大橋 あれを抜いてますね。言葉に頼らずビジュアルで自分を視覚化できる、すごい才能だったんです。だから、彼はソロになればビートたけしさんの次を行くなと思ったんです。

金一 おれはビートたけしとダウンタウンがよく分からないから、そう思ったという感じがよく分からないんだよね。そういうヒットするみたいな勘って外れることもあるじゃない。たとえば小坂明子さんなんて売れるとはまったく思えなかった。あとはトムキャット。中島みゆきさんとか世良公則さんとかクリスタルキングとか、当たると思って本当に当たったものもあったけど、外れることの方が多かったな。

大橋 千里さんの場合は一ヶ月しかなかったんです。言われて一ヶ月後にツアー初日。いろいろあって迷っていたんでしょうね。船橋さんと話したときに、本人がコマーシャルフィルムの絵コンテみたいなものを舟橋さんに託していたんです。それを見せてもらって「こんなの描いてくるんだ」と思った。当時かれはシンガーソングライターとして売れてきていて、(注、現在はジャズピアニストとしてN・Yベースに活躍中・ウマイ!!)身体的には硬そうだなと思ったけど、「吉本とジャニーズをやらないか」と提案したんです。「あなたはシンガーソングライターだ。それで評価されている。シンガーソングライターであるあなたが、ジャニーズなんぼのもんじゃとステージの中でアイドルやらないか。それがあなたにとってのアヴァンギャルドだ。シンガーソングライターの中からそういう楽しませ方が出てくるのはすごいおもしろいし、あなたの絵コンテと話を聞いているとそう感じる」と。そうしたら「おもしろいですね。ぼくやります」って、それで三日月に乗っかってとかメチャクチャな衣装とかでやったんです。

金一 岡野さんは米米は関わったことはあるの?

岡野 デビューからというか、ライブハウスへ一緒に観に行きましたよ。

金一 ああ、そのとき一緒だったんだ。

大橋 岡野が最初の、ステージデザインをやってくれたんですよ。それをかれらがすごい気に入ってくれた。

岡野 その当時はまだそういったアーティストが売れてなくて、メジャーデビューしていない人たちを資金的に援助する人がたくさんいたし、大橋さんにお願いしにくるときも、多分バジェットとか関係なくきているんだと思うんです。きっと後付けだと思いますね。いまはみんなある程度計算しているじゃないですか。

金一 まだバブルの真っ只中というか、そういう時代だもんね。社長は岡本さんだっけ、なかなか腹の据わったおもしろい人だったね。あの事故のときも、即断してくれたしね。

岡野 頭のいい人ですよね。

金一 あのときは事務所の全員がそのことにいろいろと対応してくれたよね。玉虫も修も谷口も、井出は弔辞の文章を書いてくれたんだよな。NHKホールでスタッフの一人が亡くなる事故があったんですね。やっぱり自分の息子が不幸な事故で亡くなることは、簡単には納得できないでしょう。NHKだったから当然警察も入って現場検証をやって、故意が認められない、つまり誰かの過失によって起こったとも思えないという見解を出したんだけど、親としては納得ができないよね。だから、自分たちで現場検証を再現するのを、倉庫で三回くらいやったよね。あとはお金の問題もあったし、亡くなるまで北品川の病院で生死をさ迷われていたから、交代で病院に行ったり。あれ以降、会社としても、コンサートに保険をかけてもらおうという動きを積極的にするようになったり、そういう契機にもなったね。

大橋 クリエイトとしてもあのときに真っ当に対応することができたことが、クリエイトがここまで来られた大きな要因になったと思っていますよ。

金一 それはまあ、分からないけど。

 

大橋 どっちかというと、以前はわりと隠すようにコソコソ話していたり、以前はそういう話の方が多かったんですよ。感覚的にですけど。どう言われたって、別に責任逃れとかではなくて、ちゃんと向き合って、きちんとそのことを話すことができるような終わり方というか収め方をしたということが、ほかのスタッフに対しても一つのやり方は作ったと思っているんです。そう思ったのは、ユーミンツアーの時に仕込み中のセットが壊れてコンサートが中止になったんです。

海外(USEU)から入れたセットだったんだけど、当初、どこの責任かということで混乱があった。でも、アッシは米米のことがあったから、外国のスタッフも抱えているし、外国の舞台製作会社も関わっている。そんなときにどう対処するかというときに、どこにもコソコソせずにちゃんと正面を向かって、最後には事故報告書でどういう風に処理をしたかを明確にした。

金一 あれから何十年も経ったけど、ちゃんとコンサートに保険をかけるようになったしね。

岡野 そうですね。リスクの高いものはかけるようになりましたね。

1990.jpg

90年代  の大橋さん 

金一 バブルがはじける前後、大橋さんは自分の会社というか、フェイス001だっけ?

大橋 おれは一年でケツ割ったけど。

金一 あれはどこがお金を出していたの?

大橋 結果的にはほとんどアッシでしょう。

金一 いや、どこかが出していたでしょう。メンバーはあなたと大塚さんと演出家の渡辺恭子。

大橋 彼女がどこから入ったのか、アッシははっきり分からないんだよね。

金一 あれは彼女が持ち込んだ話じゃないの?

大橋 彼女と以前CATにいた飯田さん2人からの話が最初です。最初に。そこにアッシが入って、大塚さんに声をかけた。

金一 どこかがお金を出しているはずなんだよ。あなたたちに聞きにいったときに、ちゃんとバックボーンがいると言っていた。

大橋 それはヤマハにいた池田さん。

金一 失礼だけど、そんなあやしげなものじゃなかった。

大橋 だから、池田さん経由の話ですよ。池田さんと渡辺さんのつながりで。

金一 だって、アークヒルズに隣接した新築の100平米は超えるところだったでしょう。

大橋 200平米以上あった。スペースでいったら池田さんのところの方がもっと広かった。

金一 あんなもの、いくら大橋が稼いだってもつわけがないって言ったら、スポンサーがあるから大丈夫ですって寄ってたかって言っていたよ。

大橋 それは家賃がそれほど高くはなかったんです。こちらが負担するのは。

金一 そもそも音頭を取ったのは誰なの?

大橋 渡辺さんですよ。

金一 仕事のおつきあいはいつ頃からなの?

大橋 仕事はほとんどしていないですよ。飯田さんから紹介されたような気がする。

クリエイトにもときどき顔を出していたから知っていたけど、金一さんは仕事してましたよね。

金一 おれは何本かやったね。おれの記憶では、宝塚のスターが辞めると必ず栗林恵子さんという女性がいて、その方が東京公演の座元をやるのが通例になっていた。鳳蘭さんからはじまって大地真央さん、汀夏子さんと続いていくんだけど、辞めた途端に渋谷のパルコ劇場でソロライブをやるんだよね。その栗林さんのお友だちみたいで渡辺さんが入ってきたのが最初だったと思う。

大橋 クリエイトに打合せで来ていたりして、才気の走っている人だと思った。

金一 そうだね。歌謡祭の演出も何回かやったしね。

大橋 頭が切れるだけではなくて資料やデータも含めて、とてもしっかりしていた。

金一 たしか映画監督・黒澤組の助監督だったんだよな。

岡野 そうでしたね。

大橋 予告編なんかを作っていたんだよね。整理する能力があったからスクリプター的なこともやっていた。黒澤さんのところに連れていってもらって、『影武者』のときに黒澤さんが描いた原画を全部見せてもらいましたよ。

金一 どうして渡辺さんのところにあなたが加わったのかがよく分からないんだけど、彼女はどういうコンセプトで作ろうとしていて、どういう理由であなたはそれに乗ったの?

大橋 彼女は芝居の仕事が多かったんだけど、そうではなくて自治体のイベントとかそういうところを彼女も広げたいと考えていたようでした。

 

金一 その受け皿というわけか。当時そういう仕事が多かったよね。

大橋 そういう、大きな絵を作るみたいなことをやりたいとかいうことはよく話していた。

金一 井出さんが三菱重工をベースにして劇場とか地域のプロジェクトをやったりしていた感じだね。かれは宮崎のシーガイアとかもやったね。

大橋 アッシもそこそこネットワークというかラインはいくつか持っていました。でもあんまり成立したものはなかったけど。

金一 それで、一年くらいで抜けたと言ったけど、その理由は何だったの?

大橋 経済的にやっていけないから。こう言ってはなんだけど、自分を維持していくことはできていたけど、悪いけどほかの人からのインカムが厳しくて!これでは全員の首が絞まってしまう、「無理があるから、これはもうやめない?」と言ったんです。でも、渡辺さんと飯田さんと大塚さんは続けるというので「三人がそうであれば、悪いけどアッシは抜けさせてもらう」ということになったんです。

金一 残った三人でしばらくやっていたんだ。

大橋 そうです。そこに水野さんという女性が途中から入ったらしいね。具体的なことは知らないけど。みんながそれぞれ別れるまで三年くらいはやっていたと思います。

金一 そんなにやっていたの?

大橋 定かではないけど、すぐに水野さんが入ったわけではなかったから、しばらくはやっていたんだと思う。

金一 そのあと大橋さんがピーカンパニーを作って、最初は事務所はどこだったっけ?

大橋 オールスタッフのすぐ裏ですよ。脇を入ったところ。小さいマンション。

金一 ああ、旧オールスタッフの脇か。麻布十番のね。

大橋 六本木と麻布十番の境みたいなところ。

金一 それから仙台坂に移るのか。ピーカンパニー成立の過程というか存続意義みたいなことでいうと、事務所の維持全体は大橋さんのおかげで全部やっていて、ほかの人間は何も払っていなかったよね。経理を見る限りは。

大橋 そうです。

金一 それは前の会社と変わらないといえば変わらないわけだよね。もっとほかの人にも事務所の維持のために負担させないと、そういうことは再三話していたよね。

大橋 そうですネ。

金一 ある種、あなたにおんぶにだっこだったわけでしょう。どうしてそうしていたのか、おれには分からん。意図してやっていたの?

大橋 そうですね。最初に、安心して、とにかく毎月定額があって、金額はたいしたことないけどお金の心配をしないで、出来高ではなくて普通の会社のようにして、稼いでいけばその人の収入にもなるようにして、仕事に集中できるようにしたかった。そこから早く仕事ができるようになって、それは舞台監督でもそうだし制作でもそうだけど発展していくような人が出てきてほしい、そういう人を作りたいとなと思っていました。でも、10年くらいやったけど維持するのがきつくなってくる。アッシ自身の状況も変わってくるわけだし、そうなったときに彼らに提案したんです。もう少しは出してもらわないと維持できないと。でもクリエイト大阪より低かったんですが、それを拒否したのもいた。それなら自分たちで独立してやると言ったので、それならそうしようということになった。アッシにしても彼らにしても、ある意味ではクリエイトとは違う形で舞台監督や制作で発展していけるか、それだけの評価を得たのかというとそうはなっていないわけで、自分のやったことに関しては、結果的には効果はあまりなかったということですね。

金一 おれとしては、みんなが新しい会社を自分で切り開いて作っていくことは基本的に大賛成。みんなに言っているんだけど、自分がどういうものを作りたいのか、いまのクリエイトにないもので新しくこういうものを作りたいということが、たとえばお金儲けでもいいと思うわけ。もっと自分がお金を儲けたいために、それはこのシステムではダメだから新しいものを作るということはいいと思う。違うものを作るときに、やっぱり希望なり目的なりを持たないと、おれは意味がないだろうと思うわけ。むかしの戦国大名のように、一国一城の主になりたいということでは成り立たないわけじゃない。疑問だったのは、ピーカンパニーを作ってから常にみんなの面倒を見ていて、実に財政豊かなおじさんのように振る舞っているのがずっと気になっていて、そういうことは提案もしていたじゃない。

大橋 それは金一さんの言うとおりで、後半になってきたときに自分でも、やっぱり維持するために自分が防御の感じになってきつつある、新しいことにどんどんトライすることが難しくなってくるというか、世の中全般のことでもあるけど収入面も変わってくる。そういう中で結局は解散することになったんだけど、やっぱり金一さんが言われたようにもっと早い段階でそういうことをきちんと提案して互いの意思を確認していればとは思います。現在は彼らも、舞台監督と制作も兼ねてやっている様ですし、どちらも仕事は順調そうです。 

大西は仲間ネットワーク的な拡がりを作ろうとしている。これはクリエイトと違うけれど、オモシロイものを感じます。

金一 このままでは「まずいぞ」とか話していたときに、浜崎あゆみさんとかをやっていたわけじゃない。だから「やっぱり大橋さんは不死鳥やなあ」とか思っていたんだけど、上り調子の時に組織というものはきちんとやっておかないと、ダメになってきたらみんな自分に火の粉がかかるのはイヤだから逃げ出すわけじゃない。いいときに是正するところはしておかないとね。

大橋 自分に勢いがあるというか追い風が吹いているときにやらないと、あとで気がついたところでやっても、なかなか難しいですよね。

金一 それはやっぱり、大橋さんのある意味気の弱いところなんだよ。

大橋 そうですね。

金一 さっきの西村さんのお芝居の裏側にある、あなたが持っている優しさというか弱さというか、イヤなこととか辛いこと、そういうことに大橋さんは弱いんだよね。だから、勢いのあるときの強さに比べるとね。

大橋 そうですね、攻めと防御でいえば明らかに、ってことですね。

金一 みんなある程度そういうところはあると思うけどね。

大橋 格好つけて言うわけではないけど、収入が上がってきたときにお金というものとどう向き合うのか、お金を自分はどう捉えるのか、そういうことを自分でも考えようとしたし、プラスになってきたものは、それはオールプラスではなくて、その中には必ずマイナスが含まれているしリスキーな面もある。それらを含めてどう向き合うのか。勢いのあるときは勢いのせいでいろいろな問題が見えてこないままで進んでいくから、そこで生まれたプラスの中にどのようなマイナスが含まれているのかをきちんと見ていく素直さというか謙虚さというか、それがないと潮流が変わったときは思ったように物事は動かないから。やっぱり最初に収入が増えた時期、制作をはじめてから、そのときにまわりのスタッフの人の態度がガラッと変わったんですね。

金一 まあ、だいたいそうなるんだよね。

大橋 おまえだけ金稼ぎやがってとかね。こちらもちゃんと決めた額のお金を払っているんだけど、一人でいい思いしているやつが出てきたとか。やっぱり、その人がどうこうではなくて、立場が違えば見る世界が全然違ってくるから、そうなるのも仕方ない。お金だけじゃないですけど。

金一 大橋さんはクリエイトの中で一番おしゃれだと思うんだよ。髪型とか服装とか。

岡野 いろいろと敏感ですよね。

金一 そういう人なのにクリエイトで一緒に寝泊まりしていたときに亡くなった谷口が「大橋は洗濯はしないし、ものは散らかしたままだし汚いし」ってケンカばっかりしていたよね。

大橋 本当に夫婦喧嘩みたいでしたよ(笑)。でも、家はゴミ屋敷じゃないですよ。

金一 それは分かっているけど、やっぱり散らかしている方が多いの?

大橋 いや、そんなこともないですよ。

金一 ということは、当時と比べて生活のスタイルは変わったんだ。

大橋 変わりましたね。これは谷口には申し訳ないんだけど、アッシが散らかしていたのはかれがいたからだと思うんですよ。谷口がやってくれるからね。それと、アッシだけじゃなくて修がいたでしょう。あいつの方が汚いんですよ。力関係があるのか、谷口は修には強く言えないんですよ。だから、アッシの方に来るってことがあったんですね。

金一 じゃあ、性格としては変わっていないってこと?

大橋 そうですね。何せ最初は外見しか見えないわけで、異業種の人と会うときは特に。それと同時に時事、いま世の中がどう動いているのか。いまのウクライナの状況にしても、どうしてなのか、元は何なのかとか、そういうものを持っていないと、ただテレビのコメンテーター的に上っ面を語ったって意味がない。原発みたいなイヤなことでも、時事とはきちんと向き合って調べて考えないと、賛成反対は言えるかもしれないけど、自分がどう考えるのかをきちんと語ることができないとダメなんだと思う。それは制作の仕事とかともリンクしてくることで、新しいものを持ってくるときに、右から左にパクるようにやるのではなくて、スタイルはこうだ、スピリッツはどうなんだということを考えて、このスピリッツをそのまま日本に持ってきても無理じゃないかとか、どういう修正が必要だろうかとか、そういうことをするには時事というものをしっかりと持って、場合によってはその元を知ることが必要になることも有ると思う。

金一 おれとか大橋さんの時代は、そういう政治的なことを発言することは、逆にインテリジェンスと思われたりしたよね。いまは、そういうことは言わない方がいいのではないかという全体的な風潮はあると思うんだよね。

大橋 ありますね。特にストレートはヤバイ!?

金一 われわれの発言とか思想とか考えというものは、何らかのものを読んだり見たり聞いたりすることによって蓄積されるわけじゃないですか。だけど、ちょっと危険なのは……。

岡野 情報に踊らされるということですよね。

金一 そうそう。おれたちはそれをより分けて、ちゃんと判断できるようなアイデンティティを築けているのかっていうのは、これはなかなか難しいよね。

岡野 そうですね。宗教問題、民族問題に関しては特に疎いですよね、日本人は。

大橋 一番大事なことは、そういう問題などに関しても発言するときに自分なりのフィルターをかけられるのは、現場をやってきたからだと思うんです。アッシはこういう言い方をしているんだけど、ほとんどいまの情報は首上語(くびうえご)、頭の中だけのものだ。でも、身体語(しんたいご)できちんと出さない限り人には届かない。そうでないとただの偉そうな自慢話にしかならない。言っていることの論理は通っているんだけど、なんだか体全体にしっくりこないとか、そういうことをかぎ分ける必要がある。。「よう分からん。うまいこと言われへん。でもなんかちょっとおかしいぞ」とか「これわからへんけど、いいんちゃうか」とか、そういう感覚を持つことは大切だと思うんです。あともう一つはセンサー力、言い換えれば直感。そしてそれを持つには現場感覚が必要だと思います。たとえば本番中にトラブルが起きたときに、それに対してどうするのかを2秒か3秒で決めないといけない。そういうことをやって来たことなんかがそこそこ役にたっていると思う。

金一 でもおれはそんなに自信を持てないなあ。

大橋 自信とかいうことではなくて、そういうことで自分のフィルターをかけられる自分のセンサー力で捕らえる、人のことばにいたずらに惑わされないためにも、自分の体を通すということは自分の実感としてあるんです。論理的には説明できないけど、感覚的にはそうなんです。

金一 それは現場の問題ではなくて、あなたが大学にいた頃の政治に対する感性だったりするものがもともとあった世代として育っていることが大きいと思うんだよ。そういうことに免疫もあるし。いまの若い人たちがいくら現場をたくさんやったからって決して培われるものではないと思う。やっぱり俺たちの世代の育ちと、そういうものに対する抵抗力があると思う。

大橋 金一さんの言う通りかも知れません。いまの世の中のことを考えることは、直接ではないかもしれないけど、自分の位置を俯瞰して見るときに大事だと思うんです。

   我々の世代には妙な強さはもちろんありますよ。会議だったり議論だったりには慣れてますよ。そういう訓練をされたから。我々の世代のイヤなところは、自分たちは利己でしか考えていないくせに、適当に胡散臭い民主主義的なことばでごまかすテクニックを持っているわけですよ。ヘンな言い方だけど、自分を含め我々の世代はあんまり信用しない方がいい、みんながみんなではないけど、自分は自分の利しか実は考えていないんだけど、それをうまく隠して「まあまあ、みんなで」みたいにごまかすよ。だから、そういうふうに思って話を聞いた方がいいと思うと若い人達に話したこともありますネ。

金一 亡くなった井出さんとそういう話をしたことある?

大橋 ちょっとした。でも、井出は紋切り型になるんですよ。対話をしようというより、「これはこうだ」という感じになるんですね。あの人はスタイリッシュな人だから、自分を格好良くさせて、そこに自分の評価を持っていく。井出さんとはじめて仕事をしたのは西城秀樹さんのツアーで、いろいろ迷惑をかけたと思うんですけど、井出さんがチーフでアッシがそのサブで行ったんですね。そのとき後ろの電飾がうまく点かなくて、金一さんも札幌まで助っ人で来たじゃないですか。

金一 いや、おれは単に北海道に行ったことが無かったから、井出さんに「連れていって」と頼んだら「いいけど、仕事があるかもよ」って行ったら、小道具が出来ていないから手伝ったくらいのことだったんだよ。あれは厚生年金会館(現ニトリ文化ホール)だったよね。

大橋 そうです。それで、東京公演が武道館だったんです。あそこで大塚が死にかけたんですよ。武道館の仕込みに珍しく早く着いてしまい、でもその時に観たクラプトンの立ち姿はメチャ格好良かった。

金一 そうだ、ドライアイスが下に流れ込んでね。(舞台の下で何かのキッカケでスタンバイしていた大塚さんの所へドライアイスが流れ込み酸欠になり、ケコミを破って脱出した)まあ、井出さんも大橋さんもそういう論理的な話をすることは嫌いじゃないでしょう。

大橋 嫌いじゃないですけど、井出はやっぱり断定的に言うタイプで、ほかの人のことをいろいろと聞くタイプではないから、話が止まってしまって会話にはなりにくい時もあった。でもそれはアッシの方も井出に何かジェラシーとかコンプレックがあったからだと思う。最初に仕事で井出に会ったときに「ああ、東京人だなあ」と思った。大阪の人間にはない、スタイルがあった。

金一 岡野さんは生まれはどこだっけ?

岡野 ぼくは東京、足立区です。

大橋 井出のスタイリッシュなところ、あれは大阪人にはない。いままで知っていた人の中にはいなかった。玉虫にもあったんだけど、井出はすごく「東京」という感じがした。

金一 そういうところはあったね。特に地方から上京してきた側から見ればね。

大橋 結構、女性タレントとかにも「ええ男」ぶるわけですよ。それもそれなりにさまになっていたしね。でも金一さんも森英恵さんのファッションショーとかやっていたとき、海外から来たモデルの中で金一さんのことを気に入った人が結構いましたね。モデルから金一さんの事を聞かれたりもした。でも井出は自分を見せようという気持ちが強くあったし、それが力になっていたんですよね。アッシはそれを否定ではなくて「自分にはできないけど、こういうスタイルもあるんだ」と思った。また、谷口は細かいところを突き詰めていってやっていくけど、全体の把握がちょっと緩かったところがある。だけど、できない人間に対しては本当に容赦ないこともあったから、あまり人に好かれにくい、当時はね。金一さんはもちろんですけど、そういう井出や谷口、玉虫、修みたいにそれぞれのスタイルを持った人が複数いたことは大きいですよね。自分が客席に出てやっていこうと思ったときに、おれは誰にもなれないと思った。修のようにはなれない、なろうとも思わないけど(笑)。玉虫は飄々とした感じで、修とライバルみたいな形は分かるんだけど、飄々として安心できる感じがありますよね。

金一 玉虫も理論的、論理的なところがあるんだけど、勝負事になると弱いところがあるよね。修は逆に理屈なんてどうでもいいんだけど、あいつは勝負強いんだよね。

大橋 修のことはわりと早い時期に「こいつ動物の匂いするときあるな、汗臭いとかいう意味ではなくて、こいつは人間よりもどこか動物に近い空気を出しているな」と思いましたね。アッシは余計にそういうようにはなれない、なろうとしても無理だなと思った。いろんな自分のスタイルを持った人がいて、仕事がみんな出来た。あの頃一番ダメだったのはアッシだから、そういう人たちがいたからこそだとと思うところはあります。そういうことがなかったら、客席に出てみようとか思わなかったと思う。場合によったら、村元さんが言ったように、この仕事を辞めてたかもしれない。やっぱり人との出会いだな、と思いますね。あの時期にこのメンバーと出会えた。

金一 組織ってやっぱり生き物で、どんな組織でも、またどんな人でも、上り調子のときがあるよね。上りがあるってことは下りもあるんだよ。そういった中で新たに何かをやっていこうとすると、当然新しい人たちがどのようにして、何を目標にやっていくかということなんだろうと思うんだけど、舞台監督に未来はありますかね?

大橋 以前は組織論としてよく言っていたんだけど、いかに多様性があるか。多様性のあるところの方が強い。金一さんの受け売りになってしまうけど・・・出来のいいやつばっかりなんてあり得ないんだから、いろんなことを抱え込めるキャパがあることが大切だとか、そういうところは変わっていない、いろんなスタイルがあっていいと思うんです。

金一 やっぱり人は変わるし、若い連中を見ていて「ああ、一皮むけたな」とかね、男でも女でもがんばると変わってくるよね。

大橋 そう、がんばらないとがんばらない顔になりますしね。いまの経済的な環境、音楽産業としての環境とかいろいろあって、なかなか新しいもの、いままでとは違う自分にあったものを作ろうということも難しいから、ソフトなところとかも一概に言えないんだけど、ほとんどがサイドなり後ろに大型のLED画面を据えたステージですよね。それは、敢えて言うなら奥行き感を消している面もあるわけですよ。舞台が画面化しているんですね。それを最初にしたジェネシスだとかストーンズとかは先駆者としてのものがあったけれど、いまやみんながそうしているから個性がなくなっている気もする。特にTVやDVDでライブを見ていると。でも、そうでないのも出はじめてくる気配はします。

金一 本当に個性がなくなっているのかね。

岡野 金一さんがはじめた舞台監督の時期と似てるんじゃないかと思うんです。ライブという意味では、ちょっと混沌としている時期かなと思います。いろんな演出アイテムあるものの、それがベストなチョイスか解らない、ただ流行りだから取り入れているような気がします。自分の表現の仕方も、ネットとかいろんな媒体ができているから、そういうところをうまくライブに取り込んでいけばいいんでしょうけど、

これだというものが感じられない、まだそういう新しい人が出てこないという時期なんじゃないかな。

大橋 いまは情報はすぐに引っ張ってこられるわけですよね。海外も含めて誰がどんなことしているとか。だけど、制作時間や予算はなかなか厳しい中でやっていくときには、ややもするとみんなに認知されているものでプレゼンする方が無難な場合もあったりして。それも重要なことなんですけど、そういうところからなかなか抜け出せないところがある。ハードがムービングライトと大型画面になっているものが本当に多い。そうなっているからこそ、自分の届けたい音楽は何か、どのように届けるのか、つまりライブのスピリッツの部分を考えないと。そしてそれに基づいたスタイルも大事だと思いますよ。そのスタイルとスピリッツをどういうバランスで、どういう形で提示するかみたいなことが大切だと思う。いまは演出家なんてほとんど評価されないし、評価されるような人もほとんどいないから難しいとは思うんだけど、そのライブでアーティストがやりたいことをどの様にすれば届けることができるのかを描けるようにならないと。

描いたことがすべて実現できるわけではないし、特に個人的にトライしたいことなんてなかなかできるわけでもないけれども、そういう向き合い方を持っていないと自分自身では思っていた。勿論これは個人的なことで他人にとやかく言うことではないし、どんなスタイルを選ぶにも基本である調整・進行が出来ての上の話。金一さんから教わった「舞監はスタッフの中で技術力を持たない業種、その事を忘れたらアカン」そして山川啓介さんに「われわれの仕事はプロスポーツ選手と同じですよ。どれだけ仕事ができても、年取ってるだけでうっとうしがられたり、もういいですよとなったりする。」と

「プロ野球選手は能力があれば年取ってもできるけど、我々は能力があっても同じような人がいれば若い人の方がいいってことになる。それはギャラの問題ではない。ある意味プロ野球選手よりも厳しい環境で仕事をしているんだから、うまく波長が合って仕事が増える時期もあるだろうけど、そのあとをどこで支えるのかということを意識して自分の中に足場を作っていかないとなかなか継続できない」というようなことをさらっと言われた。沢田さん(照明家)は「おれたちの仕事は男芸者だと思え。自分から営業して仕事が来るものではない。」と

「人から声をかけられてなんぼだ。どう声をかけられるか、どういう芸者になるのか。若いデビューした頃はみんながちやほやしてくれる。それは女も男も一緒だ。年を取ったときに、姐さん芸者は、この人がいたら場を盛り上げてくれるとかホッとできるとか、そういうことを作っていくんだ。そういう意識を持っていないと、ある時期を境にストーンと落ちるぞ」と話してくれました。偉そうなことは言えないんだけど、西村さんや山川さん、沢田さんが話してくれたことや、金一さんの組織論とか、それらを考えるとやっぱり腹に引っかかっているんですね。だから、何かあったときに、そういう引っかかっているもので自分自身をチェックしていた時は大きなミスはしてなかったと思う。けれど、今思えばそうでない事の方が多かったッス。

結論的に、この仕事は基本的な事が出来ていればその先はそれぞれの価値観と欲望で組み立てていけば良い。同時に他者の価値観を共有する事も大事だと思う。

今はこの先自分が他人に役に立つ事が何かあるのかなと考えたりもします。途中は省きますが、それが武道(古武道・合気道)や災害ボランティアとかに繋がっている。でもそのおかげでステージの観方も以前よりは立体的になってきたかもと自己中的には感じています。

それと何年も前から持っているステージ上での疑問を解決したい。

やっぱり人は人に一番興味があるから・・・。

 

 

                   2014 11月クリエイト大阪にて

2015/08/19 16:58:24