舞台監督にインタビュー

舞台監督の生の声をお届けします。

「舞台監督の仕事ってどんなことをするんですか?」 説明するのはなかなか難しい…が一番多く、また必要な質問だと思う。 「なんでも屋」的な部分を多く含んでいる舞台監督の仕事を大雑把に説明すると、3段階になる。

1.クライアントに会いに行き、話しを聞く。要望をイメージ化したり文章にしたりして「実現への設計図」を作る。
2.スケジュール、人員の手配、場所の手配、安全対策など・・・必要な人・場所・物など全てをもれなくチェックして準備する。
3.本番当日、設計図どおりに進行するように指示を出し、ハプニングに臨機応変に対応しながら危機を回避してクライアントの要望の実現をする。

・・・と説明しても、なかなかわかりづらい。 なので、「説明をする」のではなく、別の切り口から「歩み寄って」いただけないだろうかと考えました。 この仕事していて、嬉しかったこと、辛かったこと、面白かったことなど 生の声を聞いていただけたら・・・ そういう訳で、連載スタートとあいなりました。

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クリエイト大阪創立メンバー 玉虫豊にインタビュー

クリエイト大阪創立メンバーにインタビュー、第2弾

玉虫豊にインタビューしました。東京出身の玉虫、舞台監督になる前の活動、そして金一との出会い、当時のメンバーの印象クリエイトに入ってから現在までを語って頂きました。

 

 

玉虫豊

 

金一浩司

岡野克己

取材・構成 五十嵐洋之(ビレッジプレス)

◎学生時代

 

金一 前回のインタビューで山田修は「音楽にはまったく興味がなかったし、舞台監督になるつもりもまったくなかった」と話していたけど、玉虫さんはどうなの?

玉虫 杉並の浜田山の生まれですが、中学時代に少しギターをかじりだして高校でもバンドの真似事をやっていました。早稲田大学の付属の高等学院。高校の同級生には吉田拓郎さんのバックをやった猫の常富喜雄さんとか、のちにチューリップのディレクターになった武藤敏史さんもいた。一級上に新田和長さんというのがいて、彼がザ・リガニーズという早稲田のグループを作ってのちにレコードデビューも果たしました。その辺りとはあまり音楽の交流はなかったけどね。

高校に入っても同時に浜田山の悪ガキ連中、パン屋のケンボウと左官屋のカンノっていうのなんかとバンドも続けていました。僕はギターの腕はさっぱりでマネージャーみたいになっちゃったけど。

 

 

──玉虫さんは何年生まれなんですか?

玉虫さん 1歳

玉虫 昭和23年(1948)の5月です。井出が24年の2月か3月だから、学年は一緒です。修もそうだ。

金一 世の中としては、フォークはもうはじまっていたよね。

玉虫 はじまっていた。でも、東京のフォークってコピーフォークだったんですよ。PPMフォロワーズとか森山良子さんとかもそうでしょう。だから、フォーククルセダーズが東京に初めて来たときには、われわれ東京の人間はものすごいカルチャーショックを受けたんですよ。日本語のフォークは大阪発で、東京はコピーが主流だったからね。自分たちのバンドもコピーバンドだけど、もうちょっとロックぽい感じだった。

金一 世代としては70年安保だね。

玉虫 そうですね。早稲田闘争の発端というのは授業料の値上げなんだけど、大学がそれを発表したときに早稲田全共闘が反発したのね。でも学校側が「あれはお前たちには関係ないことで、あとから入ってくる高校生たちから値上げされるんだから」って言ったことがわれわれ高等学院に伝わって、一部が大騒動「おれたちはみんな早稲田大学に入るんだから、おれたちの問題だ」ってことでね。だから、結構一部は激しかったですよ。当時はノンポリだったけど、ノンポリでも全部左翼的だったから、一番後ろから石投げたりしていたね。神田カルチェラタンでヘリコプターがガンガン飛びまわっていて、そこでおれも石投げていた。大騒ぎになっていることをなぜ知ったかというと、後楽園で競輪やっていたんだよね。

金一 その頃からやっていたんだ。

玉虫 高校生のときに制服着て後楽園の競輪場にいて2回補導されているんですよ(笑)。

金一 そりゃあ引っかかるだろう(笑)。

玉虫 学校に連絡が来て呼び出されて「おまえ、いい加減にしろよ!」って、それで済んじゃうような学校だったです。

金一 まあ、そんな時代だったよなあ。

玉虫 高校の駅まで行くと三人が待っていて、そのまま隣の駅まで麻雀しに行ったり、そんなことばっかりしてたんです。

 

パン屋のけんぼうと左官屋の菅野

 パン屋のけんぼうと左官屋の菅野

 

◎大学時代。山川啓介との出会い

玉虫 1066年に大学に入ってからもなんとなく浜田山のバンドを継続してやっていて、赤坂の知り合いがやっていた、当時で言うサパークラブに出ていた。1年のときだったと思うけど、誰に聞いたのか分からないけど、そこに井出隆夫、つまり今の山川啓介さんが来たんですよ。

岡野 そこからつながっているんですか?

玉虫 そう。そこで初めて会った。そのときは早稲田の学生4年か5年でしょう。

金一 早稲田のミュージカル研究会をやっていたときだね。

玉虫 おれは「ミュージカル研究会の後輩」みたいによく言われるんだけど、ほとんど関係ないんです。当時、カレッジポップスという分野があって、早稲田のミュージカル研究会を母体にしたサレンサスオールというバンドが、レコードデビューするかもしれないという話が進んでいたらしくて、井出さんはうちのバンドのリードボーカル兼ドラムスの左官屋の菅野を引き抜きに来たんですよ。彼はズー・ニー・ヴーのボーカルみたいな声でね。「今度、サレンサスオールはデビューできるかもしれない。菅野君は歌がとてもうまいから、うちのバンドに入ってほしい」と言ったんですよ。

金一 山川さんもバンドをやっていたの?

玉虫 作詞と企画担当マネージャーだった。バンドのリーダーは田辺さんという人。学生のくせに外車乗り回していたし、楽器も全部親の金で揃えちゃうみたいな人だった。

菅野がいなくなっちゃうとバンドも潰れちゃうし「どうしようか?」って皆で思ったけど、菅野がデビューできるんだからいいんじゃないかって、結局そのバンドに送り出した。そうしたら、井出さんが「きみも早稲田だって。一緒に手伝ってくれないか?」と言ってきた。理由は分かっていて、おれも車と免許を持っていたから(笑)。その頃からベレットGTを乗り回していたから、それが狙いだと思ったけど、「ああ、いいですよ」と言って、サレンサスオールの現場マネージャー、ローディみたいなものになった。

附属出身は落第しなければ全員が大学に入れるんです。能力的には落第スレスレだったのに政治経済に入れたのは、おれの年1wsxにはそこを希望するやつが少なかったからだけのことで、たまたま政経に入っちゃったんだけど勉強する気なんてまったくなかった。政経に入ってから「新聞記者にでもなろうか」とか、そんなこともチラッと考えたけど。政治家にはなりたくないから朝日新聞社かテレビ局にでも入ろうかとか。あとはNHK。母方のお祖父さんが六中、いまの新宿高校の先生だったので、教え子にNHKの理事とかがいたから「大学をきちんと出ればNHKくらいは入れるぞ」って言われていた。おれは高校のときにバンドをやりながらもワンダーフォーゲル部で山に登っていたから、「新日本紀行」のディレクターになりたいなとか考えたこともありました。当時から旅が好きだったからね。

 

 

◎オールスタッフでアルバイト

 

玉虫 サレンサスオールは結局デビューできなかったんだけど、バンド自体は東京のディスコクラブみたいなところでは結構人気があって、名古屋のディスコから呼ばれたり、仙台まで行ったりしていた。そんな感じで2、3年やっていてたら井出さんや田辺さんの友人で卒業していずみたくさんの、オールスタッフプロダクションに入った人から井出さんを通して「誰か出来のいいアルバイトいないか」って話が来た。それがこの業界に入るきっかけです。それからは大学はほとんど行かずに、6年で中退ですよ。

大学3年頃からオールスタッフには1ヶ月30日アルバイトに行くようになって、そのときのバイト代が1日3千円だったと思うんだけど、月に10万近くになるんです。当時の社員の給料は6万とか7万ですよ。バイトの方が全然いいんだよね(笑)。その代わり働きましたよ。徹夜して渋谷毅さんが書いた譜面をコピーして貼り付けたり、元気だったからやりましたね。そうしているうちにまだ大阪労音にいた金一さんたちが東京に来たわけ。稽古場で、当時売れているピンキーとキラーズとか佐良直美さんとかがいるところで仕切っているんですよ。「何だ、この商売は?」と思った。次第に舞台監督という職業だということがおぼろげながら分かってきて「こういう仕事、カッコいいなあ」と思った。ギター弾くわけでもないし歌を歌うわけでもないのに、稽古場のど真ん中で「はい、こうします!」とか仕切っていて「これカッコいいな」って。

金一 でも、学生バンドの頃にもそれに近いことはやっていたんでしょう。

玉虫 まあね。出演交渉をやったたり、楽器のこととかは自分たちでやっていたから、そういうノウハウはありましたけど。

金一 山川さんと一緒に仕事したのはいつ頃なの?

玉虫 それはもっとあとです。吉永小百合さんのリサイタルで、担当がなぜか大阪労音の林衛さんだったんだけど、あの人がぼくに「山川啓介さんが今度訳詞するらしいんだけど、いくら払ったらいいと思う?」って聞いたんですよ。「5万くらいじゃないですか」とか適当なことを言った記憶があるんだけど。

金一 そのときの林衛さんは大阪労音の事務局員だったけどオールスタッフにいたのかな?

玉虫 その頃はもう半分東京に出て来ていたかも?(出向というか、)しょっちゅう来て制作とかやっていたんです。

金一 そのときの立場としては、オールスタッフに来て、吉永小百合さんの何度目かのリサイタルを、わたしの記憶では藤田敏雄さんが構成・演出、いずみたくさんが音楽、部分的に山川啓介さんに訳詞とかを頼んだというパターンのときだね。

玉虫 そのときは山上路夫さんがダメで山川啓介さんがやったんだと思う。そんな話を林さんから聞いた記憶がある。それから啓介さんとはしょっちゅう会うようになった。

 

 オールスタッフアルバイト時代

オールスタッフアルバイト時代

 

◎舞台監督へ

 

玉虫 そうこうしているうちに、舞台監督になったというか、やらされることになるんだけど、そのきっかけが今井照明の藤野光明さんなんだよね。倉田さんという舞台監督がいたでしょう。

金一 「題名のない音楽会」のテレビの舞台監督をやっていた人だね。

玉虫 ピンキーとキラーズが大阪でリサイタルをやったんだけど、藤野さんと倉田さんなのかその一派の舞台監督が向こうで揉めたみたいなんですね。オールスタッフの自分の席に座っていたら、向こうで藤野さんが誰かと大きな声で話していて、怒鳴っている感じなのね。そのときに、藤野さんが「そこのアルバイトをおれにつけろ! おれが全部やるから!」っておれを指して言ったの。ビックリしたよね。まあ、目をつけてもらっていたんだということだけどね。

金一 じゃあ、藤野さんに言われて舞台監督になったの?

玉虫 そう、それでピンキーとキラーズの舞台監督になっちゃったんですよ。3千円のバイト料が1ステージ5千円の舞台監督料になった。そこでアルバイトから一応舞台監督になってしまったので稼ぎは減ったけど、それが最初だった。

金一 最初の舞台監督は大阪だったの?

玉虫 それまでも制作チームのアルバイトとして大阪のフェスやいろんなホールには行っていてけど舞台監督としてはピンキーとキラーズのツアーです。

 

金一 ああ、全国労音の旅か。倉田さんは大阪で舞台監督やってたから、恐らくそこで揉めたんだな。

玉虫 その初日を大阪で開けたのか、よく分からないんだけど、そのときに揉めたらしくて、おれがやることになったの。

 

──それが何年頃の話なんですか?

 

玉虫 大学2年か3年のとき。とにかく、ぼくが初めて舞台監督をやったときは20歳で、それから1、2年はピンキラの舞台監督をやったんですね。あまり長くはやらなかった。

(1968年ピンキーがデビュー。大阪労音登場は8月の砂田実演出「佐良直美」の前座で、村元が担当でした。)

岡野 その旅には、照明は誰がついていたんですか?

玉虫 今井照明の友井さんとか阿部さんが現場のオペをやっていて、旅に行くのはおれと友井さん。音響はピンキラの場合は全部自分たちだから、ローディがいてシュアのセットを持っていた。

岡野 まだPAとかはなかったの?

玉虫 最初はついていなかった。

金一 もう音研はあったんだよ。当時、岡本音研という名前で水道橋に会社があったよね。あとサンクラ(サウンドクラフト)もあった。

玉虫 サンクラは芝居音響でしたね。高等学院で結構仲の良かった丸山というラーメン屋の息子がすごい活動家だったんだけど、それが大学でサンクラの松木さんたちと一緒だった。

岡野 サウンド・・・というPA会社の人で、だいたい同じ年代ですよね。

玉虫 そいつが革マルにやられて消えちゃったんです、完全に。遺体も上がってこない。随分あとに松木さんたちと話しているときにそいつの話をしたな。

 

 

◎クリエイト以前の舞台監督の仕事

 

玉虫 まあそんなことで舞台監督を始めちゃって、金一さんたちのグループとも出会った。ピンキーとキラーズを始めたときは金一さんたちのグループもいて、藤野光明さんに、おれと山田修が手伝っていたら「東京の有望新人と大阪の有望新人、どっちが優秀か見てやる」とか言われた。「いずみたくリサイタル」の時だったと思う。でも、ライバルというかね、おれは生粋の東京山の手の人間だけど、大阪人に関しては特に何の違和感もないんですよ。おれの高校の親友が船場の金網問屋の息子で大阪の南中(なんちゅう)出身で、そこはワルでナンバーワンらしいんだけど、そこから高等学院に受かったというやつなのね。だから、高校一年のときから夏休みに大阪へ遊びに行っていたんですよ。そうすると、そいつの友だちが来るでしょう、高校生なのにキャバレーに勤めてる女の子とかパチンコ屋の息子とかそんなのばっかりで、カルチャーショックだったけどすごくおもしろかった。「ああ、東京の子はことばがきれいやね」って結構女の子にもてたりしてたんですよ。

金一 おれたちは逆に、東京の女の子はことばがきれいで、喋っているだけでなんとなくきれいに見える、みたいなところがあったよね。まだ東京の標準語というものにみんなが憧れるような時代だったんだね。

 

玉虫 クリエイト大阪に参加する前、演出の藤田敏雄さんと藤野光明さんの今井直次グループがちょっと疎遠だった時期があったじゃないですか。

金一 今井照明と藤田さんが、ということね。分かるよ。

玉虫 ヘンな話、藤田さんが岸洋子さんの演出をすると照明がASG系になって舞台監督に大橋が来てたり。次の年にはなぜか「今井先生の明かりでやりたい」と岸さんが言い出すと、林さんが制作兼舞台監督みたいな形で入って、現場はおれが行って照明が今井照明。そういうことを繰り返したことが2、3年ありましたね。それまでの成りゆきから「林衛・藤野光明グループ」の方にいたわけです。

 

金一 林衛は経緯からいうと、1971年か72年?に労音を辞めていったんオールスタッフにいったんだよね。

玉虫 社員として入りましたね。

金一 オールスタッフを何かの理由で辞めて、そのあとに永六輔さんのクリエイトプロモーションに行ったんだよね。そこの社長の松岡さんが永さんのマネージメントをやっていて、オールスタッフとは違って歌ものではなく文化人のマネージメントの会社をやっていたよね。おれはその頃知っていて、なんだか林衛さんに松岡さんのところに連れていかれて「おまえ、クリエイトプロモーションに入らないか」と言われたことがあるけど、そんな気はまったくなかったから断ったけどね。

玉虫 その後、尾崎紀世彦さんの仕事が入るんです。

金一 それはどっちの系統ではじまったの?

玉虫 それは三浦寛二さん。

金一 三浦さんは誰と近かったの?

玉虫 三浦さんは元々、デュークエイセスの一番最初の事務所でマネージャーみたいなことをしていたんです。尾崎紀世彦さんをデビューさせるバックにはTBSがいたから砂田実さんも噛んでいて、尾崎さんを三浦さんに預けることになった。それでヒットしたんですよ。三浦さんは松岡さんとも師弟関係があったんですね、デュークの関係で。それで、クリエイトプロモーションだった林さんが制作を担当して、ぼくが舞台監督としてやれと言われて、尾崎紀世彦さんについていたんです。ところが林さんがお金がおかしくなってしまって、三浦さんがしょうがないからって、尾崎紀世彦さんで稼いだ金でクリエイトプロモーションに弁済して。それで、尾崎紀世彦さんがツアーに行くと、林さんが相変わらず制作としてついていくんだけど、金はダメだからおまえが金取ってこいって三浦さんに言われて、地方の労音に行くでしょう、それで取っ払いでお金もらってくるんですよ、300万とか400万とか。それを直接三浦さんに渡した。

金一 その当時の労音でも取っ払いなんてまだあったの?

玉虫 回数はそんなに多くないけどありましたよ。2、300万の金を懐に入れて東京に帰ってきて「どうしよう、どうしよう」っていうのが2、3回あったね。

尾崎紀世彦さんでずっと回っていた頃はまだクリエイト大阪に参加していないけど、金一さんとか修とかとはしょっちゅうやり取りしていたし、人手が足りないときは一緒に仕事したりしていた。第2回の世界歌謡祭はまだ正式にはクリエイト大

に入っていなかったと思いますね。

玉虫 ちょっと話が飛ぶけど、その創企画が潰れてしまったときに金一さんが僕に、「ちょうど場所も空いたし、おまえも会社作ったら。井出や修もやっているから」ということでジェイドインを設立したんです。

金一 林衛さんは村元さんと同じ歳くらいで、大阪労音に入局したのは、1964年ごろか。

玉虫 金一さんより四つか五つ若いでしょう。おれと金一さんの間くらいだよね。

金一 そうだね。おれとおまえとが10歳違うから、林さんとおれが5歳くらいだったよね。

玉虫 山川さんと林さんが同じくらいだったかなあ。

金一 あいつが本当にお金のことの始末がきちんとできていれば、相当なところまでいったよね。仕事はできたし。

玉虫 仕事のセンスとかはよかったしね。だけど、いいことをやるためには突き進んで行く。能力はあるんだけど、おれみたいになんとなしにずる賢く考えることがあまりできない人だった。本当に純粋な人だったからね。

創樹社を作る云々でおれはあっちに引き込まれそうになったけど、おれはやっぱり舞台監督の仕事の方がおもしろかったから。

金一 創樹社は何を契機にできたの? 山川泉さんがオールスタッフを辞めたから?

玉虫 そうだと思います。

金一 仕事をすることがなくなって、会社を作りたいと藤野さんに相談したんだよね。それで、照明の今井直次さんを頭にして、年に何本か制作とかやった。山川泉さんというのは、林さんじゃないけど、やっぱりどちらかというと「いい作品をつくりたい」とか「残したい」とかいう意気込みというか意向がとても強い人で、またお金がダメな人なんだよな。

岡野 『ピープル』っていうのがあったじゃないですか。あれは創樹社が企画制作でしたよね。

金一 そうそう。あれは作品としてはいい作品だったよ。中川久美さんのダンスとか、中身としてはいまやっても素晴らしい作品だと思う。

玉虫 あの辺の企画もやっぱり藤野さんだからね。企画の根本さんは。山川泉さんが企画で云々というよりは、藤野さんのだよね。

金一 藤野さんはどちらかというと、照明の分野におさまらないで企画とかをしたいタイプだよね。

玉虫 演出力という意味でも藤野さんは秀でていると思いますよ。アイデア一つとっても。

金一 ライティングに関する想像力というか、尾崎紀世彦さんのオープニングなんか素晴らしかったよね。

玉虫 あれはいまでもよく憶えている。1サス2サス3サスと全部下に降りてきて、客席に目つぶしみたいに。いまだったらムービングを使えば簡単にできるんだけど。フェスの上手前の方にシンガーズスリー達が並んで紹介を受ける。最後に「そして、尾崎紀世彦」って言うと、目つぶしが消えてダンとピンが当たってセンターに尾崎さんが立っていて、ババーンと始まるんだよ。

金一 観ていた人間としても印象に残っているオープニングだね。

玉虫 いま若い連中がフェスティバルホールはどうのこうのって言っているけど、おれたちはやっぱり金一さんと林さんがいたから、おれみたいな東京の人間がフェスに行っても全然恐くなかったもんね。「おまえ、金一のところのものか」「おまえ、林のところでやってるんだって」みたいなもので、民音の舞台監督さんが勝手にピアノ動かしてホールスタッフにナグリ持って追いかけられたり(笑)。

金一 話は飛ぶけど、民音というものが当時あって、そこも同じように全国にまわすから舞台監督をまとめる会社が必要だということで作ったんだよ。そこの頭がチジヒロシという人で、世代的にはおれたちと一緒だよね。

玉虫 その会社、ユニゾンカンパニーはいまもあって、三人娘とかやってる。永六輔さんでもいずみたくさんでも労音系だと金一さんに頼んで、民音系だとチジさんに頼んでたね。

金一 当時はどちらかというと、労音とか民音とか音協とかいうのはどこも組織防衛みたいなところがあって、さすがに頭になるスタッフは共通のスタッフとか共通のタレントを使うんだけど、手下で使う会社とかは、労音はそうでもなかったけど、民音はわりとやっていたよね。

玉虫 民音はバックが創価学会だね。

金一 どこかの会社は創価学会員になったりね。

玉虫 金一さんとか山川泉さんとかだって新聞取ったりしてたよね。

金一 おれは入信までは絶対にイヤだけど、新聞取るくらいだったらまあいいかって。その辺りが、どちらかというと火花を散らしている、ある意味でいい時代だったけど、そのうちにだんだんお客さんが入らなくなって、いまや民音といっても何が何やら分からないでしょう。そんなことになってしまったよね。

岡野 なかなか民音の企画は文化的でよかったですよね。アカデミックな感じがして。

金一 それはだから、労音と違うことがやりたいということがあって、独自性を出していろいろやっていたんだろうね。

 

玉虫 クリエイト大阪に参画する前のおれの一番メインの仕事はやっぱり尾崎紀世彦さんだった。

金一 演出はいなかったわけでしょう?

玉虫 いないですよ。最初は元TBS砂田実さんがやっていた。砂田さんが演出をやったときに、林さんが舞台監督のチーフでぼくはアシスタントでついていたんだけど、いろいろもめて、藤野さんと三浦さんがどうすればいいかとなった。いまとシステムは同じですよ。やっぱり舞台監督は演出家に文句が言えないから、林さんを制作にしておれが舞台監督のチーフになって、林さんにプロデューサーとして砂田さんにいろいろ注文をつけた。そのあとは演出というのは立ててないですね。振付、ステージングはいたけどね。やっぱり藤野さんと林さんが中心になって。演出家なんていたって言うこと聞かないもん、尾崎は。彼はすごいもんね。若いやつで尾崎紀世彦さんに殴られなかったのはおれくらいだと思うよ。おれにはよかったんだよね。「ムシ、ムシ」言って可愛がってくれた。でも、藤野さんの言うことはやっぱり聞いた。

あとはペギー葉山さんのツアーにもよく行きました。

リサイタルの照明は今井さんがやって、旅回りに行くと今井さんのむかしの弟子だけど星金二郎さんとかね、おれはペギーさんとは、民音から労音から随分旅に行った。

金一 今井先生のお弟子さんの系譜って、星金二郎がそうでしょう。それから、井出とピンクレディやっていた人。

玉虫 独立した方が2、3人いましたよね、

金一 星さんなんかはプランナーとして「ボニー」をずっとやっていたよね。

 

◎アメリカツアーとクリエイト大阪へ参加

 

岡野 学生時代からオールスタッフに入って、そこから舞台監督になろうとして、という流れがなんとなく見えてきましたね。

 

──結局、玉虫さんはいつクリエイト大阪に入ったんですか。

 

岡野 資料だと昭和50年(1975)に入っていることになってますね。

金一 それはあってると思う。

玉虫 クリエイト大阪に入って初めてやった仕事は、たぶん上条恒彦さんと倍賞千恵子さんのジョイントコンサートだった。井出悟が上条さんをやっていたんだけど、井出がほかの仕事が入っていたから「おまえ回れる?」ってきたんだよね。修からは岡林信康さんだね。黒須さんが制作した。

岡野 このときには井出さんも大塚さんもいたんですね。

玉虫 いたね。大塚と初めて会ったのはプレイガイドジャーナルの1974年第1回アメリカ夏の陣ツアーなんですよ。向こうで会ったんだよね。いずみたくさんのヨットのクルーだって話を聞いて、結構気が合っちゃって一緒にニューヨークまでグレイハウンドバスで行った。大塚はニューヨークから西海岸へカナダ回りで帰って、おれはメキシコ回りで帰ることにして、ニューヨークで別れたの。今井先生に紹介してもらった大平さん、東宝のニューヨーク支社長みたいな人がいて、そこに二人で行って、「こういうミュージカルやってるから行きなさい」ってそれでチケット買って2、3本観たりした。<

2015/02/18 12:21:43