舞台監督にインタビュー

 

「舞台監督の仕事ってどんなことをするんですか?」 説明するのはなかなか難しい…が一番多く、また必要な質問だと思う。 「なんでも屋」的な部分を多く含んでいる舞台監督の仕事を大雑把に説明すると、3段階になる。

1.クライアントに会いに行き、話しを聞く。要望をイメージ化したり文章にしたりして「実現への設計図」を作る。
2.スケジュール、人員の手配、場所の手配、安全対策など・・・必要な人・場所・物など全てをもれなくチェックして準備する。
3.本番当日、設計図どおりに進行するように指示を出し、ハプニングに臨機応変に対応しながら危機を回避してクライアントの要望の実現をする。

・・・と説明しても、なかなかわかりづらい。 なので、「説明をする」のではなく、別の切り口から「歩み寄って」いただけないだろうかと考えました。 この仕事していて、嬉しかったこと、辛かったこと、面白かったことなど 生の声を聞いていただけたら・・・ そういう訳で、連載スタートとあいなりました。

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第一回 長野真梧インタビュー

聞き手・田川 律

こだわるからわがままに。好きだから真剣に。

舞台監督であり、舞台監督専門スタッフが集まった会社・クリエイト大阪の社長でもある長野真梧と最初に何時であったのか、 記憶はない。気がついたら彼はぼくのことを「おいちゃん」と呼び、ぼくは彼のことを「しんご」と呼び捨てるような仲やった。]そうなったのは、たぶん彼が大阪出身で、大阪弁をいつまでも喋るせいではないか。 このインタビュー依頼の始まりもこうだ。

     「なあ真梧、久しぶりやな」
 「そうですね。なんですの、急に」
 「いやな、こないだ京都のやつと話してたらきついこといいよんね」
 「なんでんの?」
 「大阪の人えらそうにいうたかて、うちらの賀茂川のどぶ呑んでるやん、やて」
 「そんなん、いいかえしたりなはれ。京都は水はキレイやいうけど、人間はきたないやん、いうて」
 「そやな。ええこというやん。ところで今度インタビューさせてくれへん?」
 どこの世界にインタビュー頼むマクラにこんなことふる人たちいまっか。
     
田川   そもそも舞台監督を始める前は何をしてたの?
     
長野   大阪で、浅野秀弥(*)さんとかと会って日本フリーマーケット協会というのを立ち上げる前は、僕らはアングラ・サーファーというか危ないサーファーやっていた。(*)日本フリーマーケット協会代表。日本で最初にフリーマーケットシステム(広いスペース上で個人出店者が区画単位に不要品を並べて販売する)を始めた。
     
田川   サーファーやってたの?
     
長野   そうです。
     
田川   どこで? 浜寺海岸でか?
     
長野   何をおっしゃいますか。浜寺っていったら僕ら小学生の時の遠泳で行ったくらいですよ。
     
田川   浜寺でサーフィンなんてできないもんな。
     
長野   できないですよ。だから和歌山行ったり四国行ったり、伊勢の方まで行ったりしてました。
     
田川   ほんで気がついたら舞台監督してたの?
     
長野   やっぱり山田修(*)さんと会ったことですね。(*)舞台監督の先輩。現スペースコア社長
     
田川   ああそうか。やっぱりな。
     
長野   フリーマーケット協会では、コンサートもやっていたけど、コンサート業務というより僕らは学生ツアーをやっていたんですよ。
     
田川   何年頃?
     
長野   30年前くらいですかね。
     
田川   じゃあ76年くらいか。プレイガイドジャーナルのあのアメリカ夏の陣というツアーが終わった後やな。
     
長野   だと思いますよ。そのプレイガイドジャーナルの編集やっていた向井(久仁子)さんらも加わって、ポケットバイクのコースがあった住之江区のフロンティアランドで初めてフリーマーケットを開催したんですよ。FM802にいた富田(雅夫)君が音楽班で、僕らはツアー班で。でもその後ちゃんと就職もしたんです。ロイヤルホテルの中に制作会社があって、テイクワンプロモーションというジャズをやっているところで、ジャズが好きだったからそこに入ったんですね。その時に白井克治とニューソニックというビッグバンドや世良譲トリオのマネージャーやったり、ビッグバンドを連れて半分舞台監督まがいに森昌子さんとか石川さゆりさんとかの西のコンサートに一緒に行っていたりしていたんです。
     
田川   要するにマネージャー兼舞台監督いう、ようあるやつや。
     
長野   そんなこんなしているうちに「なんかつまらんな」と思って。それでもそれなりのお金は入ってくるんですね。でも「これはあかんなあ」って思ったんですよ。といった頃に、ニューソニックのマネージャーの先輩が(山田)修さんと仲良しだったんですよ。その人に「どうしようかな、と思っているんですよ」って言っていたのが24歳くらいの頃なんですね。それで「お前もう辞めろ。純粋に舞台の仕事をしたいと思っているなら修のところに行け」って言われました。その頃には修さんのことは知っていたんですが、どういう人かまでは深くは知らなかったんですね。「きったないなあ、あのおっさん」くらいの感じでね。その先輩が頼んでくれて、「その代わり、飯食えへんで」って言われて。それで東京でしょう。どうしようかな、と思いながらも母親が千葉にいたんで、まあ住むところはあるからええかって出てきたんです。
     
田川   その時には当然クリエイト大阪はできていたんでしょう?
     
長野   できてましたよ、もう。井出悟(*)さんとかがそこで麻雀やってるわね、もうどうしようかと思いましたよ。(*)舞台監督の先輩。現SPCミュージック社長。
     
田川   わたしも昔このクリエイトの事務所で一ヶ月の間に14日間来たことあるよ。来るやろ、徹マンやるやろ、それで帰って寝るやろ、起きたら来て徹マンやるやろ、それで14日間や。
     
長野   そういう先輩がいるから良くないんですよね。中入ったらジャラジャラ音がしてね、「なんじゃいここは」って思ったもん。えらいとこ来てもうたなって。ヤバイ事務所かと思いましたよ。
     
田川   その頃には僕はもうあまり来ていなかったでしょう?
     
長野   田川さんと会ったのはその数年後ですよ。だって来た時から色んな仕事ですぐに現場に出されましたもん。今思えばホンマようあそんどった。いっちゃん貧乏な頃や。麻雀負けても点数表で集計しとくだけで、はらわへんかったな。でもそこに出入りしてたから、舞台監督の仕事もろて、「いずみたくリサイタル」の全国ツアーをしたりした。このリサイタルのトリ(最後)の歌はきまって「希望」で、それで緞帳を下ろすのだが、ツアーの途中からは袖で「あなたの足袋はコハゼのない足袋(ホンマは「旅は終わりのない旅」)などと口ずさんでいた。そやからいつかクビになったんかな。
     
田川   その頃はあなたは誰のブカン(舞台監督)をやってたの?
     
長野   浜省(浜田省吾)かな。浜田の「ON THE ROAD」の初めの頃か。それと三平師匠の娘さんの泰葉ちゃんか…。あとね、世界歌謡祭やってたでしょう、うちで。僕も五、六回はやりましたね。スティービー・ワンダーとかボン・ジョヴィとか来てたり、最後の頃。
     
田川   仕事の量ってどうなの?
     
長野   五木(ひろし)をやっていた時は多かったですよ。五木の最盛期は一年中、もう年がら年中って感じで。例えば新歌舞伎座やって、ツアーやって、名古屋の御園座行って、ツアーやって、新橋演舞場行って、ツアーやって、明治座やって、ツアーやってディナーショーやって、もう一年中ですよ。五木チームが一番多かったですね。年間二百四十公演くらいやってましたね。一日二回公演でしょう。
     
田川   新歌舞伎座や御園座でも舞台監督やったの?
     
長野   やりましたよ。
     
田川   ああいうのって芝居が付くやん。
     
長野   芝居とショーがあるんです。芝居の方は座付きの舞台監督がいて、ショーの方は我々がやって、という棲み分けはいまだにありますよ。
     
田川   それは大体あなたと大山(修一*)さんがやってたの?(*)現フリーパーツ社長。
     
長野   そうですね、大山さんと僕が最初やって、大山さんが外れて僕ひとりになって、それで約15年くらいやりましたね。大山さんと5年くらいやっていたから、五木に関わって20年くらいになりますもん、もう。
     
田川   じゃあ、つい最近じゃん。
     
長野   つい最近までですよ。それこそ浜田やって他のもなんだかんだやりながら、ツアーとしてついたのが28歳くらいだったと思いますね。そこから20年でしょう。
     
田川   ほなら、これまでのあなたはほとんど五木かいな? そんなことないやろ?
     
長野   いや、そんなことありますよ。勿論舞台監督としてはあるところまで、ですけど。ある時期から演出補をやって、そうなると頭だけ行って、作って渡して違う仕事をするっていうのもありましたからね。僕は90年から矢沢永吉さんをやっているんですよ。これは舞台監督として毎年ついているんです。
     
田川   それは今も続いているの?
     
長野   続いています。矢沢のツアーだけは必ず行くんですよ。90年頃は五木さんの方は演出補だったんですね。それで若いスタッフとでそれもこなして、矢沢さんの場合は二ヶ月か三ヶ月しか年間にツアーやらないから、それをやって帰ってきて、また劇場の本を書いたりしながらやっていたんですね。
     
田川   それで矢沢をやって…
     
長野   そう。あとはWINKのファースト・コンサートやったりね、色々ありましたね、その頃は。
     
田川   大体年間でどのくらいするの?
     
長野   全部合わせても年間二百日もやらないですね。今では僕は本番にも行くのは矢沢さんのツアーと後は会社から頼まれた仕事の頭だけ行くとかですね。ほとんどの仕事は若手に振るようにしています。本番日数にしたら六十日くらいじゃないですか、
     
田川   三年くらい前、(劇団)黒テントが大阪公演で行ったときに矢沢のコンサートとぶつかってん。あなたらは大阪城ホールでやっていて、わたしらは小さいところでやって。派手な格好した人はそっちに行って、汚いのはこっちに来ててんから。。
     
長野   矢沢ももう57歳くらいですからね、お客さんも大体同じ年代だからね。
     
田川   あなたはいくつなの?
     
長野   僕は49歳です。ぼくも「怪しい」とか「あいつなんか舞台監督ちゃうで」いわれながら、かれこれ43年くらい舞台監督をしている。でも今でいうノウハウを誰かに教えられたことはほとんどない。だから初めの頃は今思えば冷や汗もんいっぱいや。一番最初の舞台監督は大阪の新歌舞伎座だった。60年の6月か。雪村いづみ。まだ大阪労音事務局に入ってなくて、たしか当時の大阪新聞(そんなんあったか?)の記者に頼まれ引き受けはしたものの、まさに右も左もわからず、右往左往してただけ。労音に入ってからも、初めの一年はまるでわかってなかった。フルバンドの海老原啓一郎のコンサートに作家の都筑道夫を構成・演出に起用した。司会は彼の要望で夢路いとし、喜味こいし。企画担当のぼくが舞台監督もしたが、ここでもどんな仕事をしたらいいのかわからず、おろおろした
     
田川   それで舞台監督の勉強っていうのは、どうやって勉強したの?
     
長野   現場ですよ、現場。
     
田川   みんなそうやな。
     
長野   そらそうですよ。そんなのね、今どき専門学校みたいなところで教えてもらって役に立つようなものは誰も教えへん。現場に行って二寸釘と一寸釘と比べてみいって言われて、なぐり(金づち)で手を打ちながら覚えるんですよ。
     
田川   この頃の劇場なんて釘の打たれへん方が多いんじゃないの?
     
長野   そう、いっぱいありますよ。でも我々は演歌をやったおかげでね、そういう劇場に入るじゃないですか。そうすると恐い棟梁とかいらっしゃるんですよ。我々、音楽業界でしょう。認めてもらえないんですよ、最初はね。お芝居の小屋やから。「なんや、歌うたいが何しに来たんや」って。新歌舞伎座に杉本棟梁というおじいちゃんがいらっしゃって、僕らがギリギリだったのかな、お会いできたのは。大道具さんが舞台の真ん中に椅子持ってきて、そうすると杖ついて杉本棟梁がやってきて座るんです。照明さんが一所懸命機材を吊すのをやってるでしょ。そうしたらその棟梁が「おい、お前、その電器屋!」って言うんですよ。電器屋ですよ。「電器屋!お前らいつまでやっとんじゃ!とばせ!(照明のバトン)」って。「いや、棟梁もうちょっとですから」って言うんだけど、ピューッとバトンが上がっていってしまってね。それで終わり。それで大道具さんが出てきてドンドン始めるでしょう。それが終わるまでもう降りてこない。そんな世界ですよ。だから僕らが行ってね、歌謡ショーと違うけど、まあまだ若かったからものすごく可愛がってもらえたんですね。「お前、何したい?」って言われて、「こうこうやらせてください」って言うと、「分かった。ほら、やったれ」って、そんな感じでしたよ。そやけど、時にはなぐりが飛んできたりね。照明さんとか音響なんて特にそうですよ、モニター・スピーカーをね、「なんでこんなとこにこんな箱置くねん、邪魔や」とか言われるんですよ。「いや、これなかったらあかんのですけど」って言うんだけど、「こんなとこ置かれたら困る。撤去!
     
田川   それで撤去されるの?
     
長野   いや、しゃあないですやん。それで制作呼んできて、「うちらは歌を歌わせに来たんだからこのスピーカーを置かせてくれって言うてくれ」って。そうしたら制作の人間がビビリながら行ってね。そうしたら「しゃあないなあ。なんか黒いもの掛けろ」とかね。
     
田川   僕は芝居の小屋に行ってないからな。
     
長野   芝居小屋はよく行きましたよ。東京の明治座なんて昔はもっと恐かったですよ。昔の大道具さんは本当に気性が荒かったですよね。
     
田川   大道具がいっちゃん荒いねんな。
     
長野   そうですね。
     
田川   必ず雪駄履いてな。恐いねん、あの雪駄の音が。有楽町マリオンの舞台裏に入ったのが明治座で、あんな新しい劇場なのに大道具が雪駄履いていて、コンサートする時も結構恐かったな。
     
長野   明治座が古い頃をギリギリ知ってるんですよ。二、三年そこで五木をやったんですね。新橋演舞場も一回燃えて、新しくビルになってから十年連続正月公演。だから毎年正月は演舞場にいたんですよ。 こんないっぱい苦労する舞台監督の楽しみてなんだろう? 人それぞれだが、ぼくなんか、なにもない舞台にいろんなもの組んで、コンサートがおわれば、またなにもない空間に戻る。それを見るのが好きでやってる。サーカスが好きなのも、サーカスがよく出て来るフェリーニ監督の映画が好きなのも、西岡恭蔵さんのサーカスの歌が好きなのも、みんなそこに通じる。けったいかなあ。
     
田川   今までで一番楽しかったのは誰?
     
長野   楽しいのはやっぱり矢沢さんですよね。勉強になったのはやっぱり五木さんですよね。音楽のルーツって人それぞれ違うと思うんですけど、僕は多分童謡とか民謡とか昔の日本の映画、ひばりさんの映画の歌とか、そういうものがルーツなんですよね。おばあちゃんに育てられたからね。そんなことを言ってると、やっぱり演歌っていいんですよ。で、矢沢永吉って演歌なんですよ。
     
田川   なるほどね。
     
長野   あと、自分で舞台監督をしたいという条件としては、歌のうまい人、その人の歌を聴いて感動できる人。だからいくら売れていてもね、何歌ってるのかよく分からない人のは絶対にやりたくないんです。いっぱいいるじゃないですか、今、若い人でね。
     
田川   そういうのはやりたくない?
     
長野   絶対にやりたくない。横で聴いていてうるさいだけとか、そういうのは絶対にいや。だからひばり児童合唱団とかも好きですよ。だって、聴いていてすごく心が豊かになるからね。
     
田川   一番苦しかったのは何?
     
長野   苦しいのはあんまりなかったのかもしれないけど、五木さんの時っていうのは、それこそ無我夢中でしたからね、ずっと。だから年間250日くらい仕事していても、それは体の中にルーティンとして入っているからそれでやっているじゃないですか。
     
田川   そうはいってもな、五木とかを二十年ずっと聴いていて嫌になれへんの? 下手したら年間に同じ歌を二百回以上聴くわけでしょう。
     
長野   聴くけど、嫌にはならないですね。「長良川演歌」をずっと聴いていても嫌にならないですよ。
     
田川   ああ、そう。僕なんか雪村いづみのブカンをやったとき百回聴いて嫌になったで。いくら上手くてもな、百回聴いたら飽きると思うでえ。四十年以上前だけど。
     
長野   だから、五木さんでも矢沢さんでもね、矢沢さんは演歌だって言ったけども、歌が聞こえるんですよ。例えば「止まらないHa〜Ha」とか「トラベリン・バス」とかね、みんなが知ってる「時間よ止まれ」とかもそうだけど、情景が見えてくるし、いくつになってもその歌が体の中に入ってくるんですよね。いつ聴いても「上手いなあ」って思うし。それと一万人とかの武道館のお客さんが「うわぁ!」ってなるでしょう。もう鳥肌立ちますもん、いつも。「よし!また来た!」って思いますね、毎年毎年ね。
     
田川   結構体育会系やな。
     
長野   体育会系ですよ。だけど、やっぱり長いことやらしてもらう人っていうのはやっぱりそれだけフィーリングが合うんですよね。五木さんもそうだし。五木さんに教えてもらったこと、矢沢さんに教えてもらったこと、それぞれ沢山あるし。矢沢さんをやった時、バックミュージシャンがドゥービー・ブラザーズなんですよ。ジョン・マクフィーとかがギターでね。もう、「何この音!」っていう経験を90年にしたんですよ。
     
田川   毎年ドゥービーだったの?
     
長野   ううん。色々とね、日本人のバンドに変わったり、ロンドンのレコーディング・メンバーでジョージ・マクファーレンたちが来たり、そういうルーティンがあるんですね。三年前かな、今年も実はやるんですけど、ベーシックのバンドとプラスアルファでチェコ・フィルが来るんですよ。四十何人来るんですね、これで二回目なんですけど。彼らと一緒にやるんですけど、もう音が違うんですよ。生でその音が聞こえるんですよね、舞台の袖にいたりリハーサルの時など。もう全然違うんですよ。90年だから32歳とかの頃にその音楽を聴かせてもらったんですね。だから離れられないんですよ。
音楽の理論がどうのこうのではなくて、ほんまもんを聴けるんですよ。BOWWOWの山本恭司とかがバッキングやってますよ、一緒に。彼もすごいしね。そういうのを聴いてしまうと他のことできないですよね、はっきり言って。これも人によって違うが、仕事が夢に出てくることがままある。ぼくなんかそれがけっこういっぱいあって、もはや夢なんて現実の投影にすぎない、と思ってるくらいだ。そういうのを「夢見る頃を過ぎて」いうんかな。それにしてはよう見る。開演直前やのに、舞台の用意ぜんぜん出来てない、とか。逆に客がひとりもおらへんとか。
     
田川   舞台の夢は見る?
     
長野   昔は見ましたね。カミさんが言ってましたよ。寝言で「緞帳アップ!」とかね。
     
田川   この頃は? 結構現場から遠のいているから。
     
長野   そうですね。
     
田川   僕は今でも見るで。
     
長野   僕はこの頃でいうとね、文句ばっかり言ってるらしいですね。会社のことで文句言ってるのとちゃいますか。
     
田川   外国の舞台って結構観にいってるでしょう?
     
長野   行ってますね。
     
田川   どこが多いの?
     
長野   僕が一番好きなのはラスベガスですね。ハードロックカフェとかヒルトンでやってるコンサートとかもその場で探して行くんですけど。やっぱり「オー」とか「カー」とかいったシルク・ドゥ・ソレイユ系のものは面白いですね。ラスベガス行ってくださいよ、面白いですよ。こんな世界があるんだって思いますよ。
     
田川   ギャンブルじゃなくて。
     
長野   そう。ロンドンに行って「ファントム・オブ・ジ・オペラ」観たり、ブロードウェイに行ったりね。でも僕はニューヨーク嫌いなんですよ。昔に行ってね、あんまり良い印象なかったんですね。寒いし恐いしね、こんなところ来たないわって。二十代の前半に行ったんだけど、嫌になりましたね。恐かったんですよね、あの頃は。歩くところがない。「こっち行ったらあかん、あっち行ったらあかん」だし、昼間しか動けないし、夜出ていったらパンってやられるって。ロンドンは何回か行っているんですけどね。
     
田川   ロンドンの方がいい?
     
長野   僕はロンドンの方が好きですね、どっちかっていうと。みんな、ブロードウェイに観にいくとか、ロンドンにミュージカルを観にいくとか、あるでしょう。
     
田川   あなたミュージカルなんて観たくないじゃないの?
     
長野   それが違うんですよ。僕はミュージカルが大好きなんですよ。もとをただせば、小さい頃に観た「雨にうたえば」が頭の中にあるんですよ。すごく良くってね。それから「ザッツ・エンターテイメント」ですか、あれも素晴らしいなと思った。そういうのがもう一つの音楽の原風景なんですよね。だからミュージカルは好きなんです。下手くそなのは大嫌いだけどね。向き、不向きという言葉。舞台監督についてはどうか。
     
田川   舞台監督の資質って何だと思いますか?
     
長野   いっぱいあるんですけどね。
     
田川   じゃあ、その中で三つ。
     
長野   難しいこと聞くなあ。何にでも興味を持つことっていうのはまず一つですね。それと声が大きいってこと。あとは何かなあ。舞台監督っていろんな分野があるけど、我々音楽の舞台監督でいうと歌が好きなことですかね。音楽というジャンルの中でも僕は歌が好きなんです。人間の声ですよね。我々ポップスの舞台監督としては、クラシックとかだったら勿論楽器の音が良いとかあるんでしょうけど、最終的には歌っている人の歌声ですね、僕の場合。
     
田川   がんちゃん(*)がね、舞台監督になりたいって来た女の子に「舞台監督に一番必要なのは決断」って言っていたね。わたしはその時までそんなこと思ったことなかったのね。僕はものすごい決断力がないねん。だからようやってきたな、と思うねん。そやけど、舞台監督の仕事してる時だけはさすがに決断するわ。舞台監督が決めないと先に進まないからね。(*)金一浩司=舞台監督の先輩。クリエイト大阪創業者、現会長。
     
長野   決断ね。なるほどね。勿論最終的な決断力はないといけないんですけど、右か左かって問われるわけですからね。そこで「どうしよう」って言っていたら物事進まないっていうのはあるんですけど。決断力のある人間ほどね、ありすぎると困るんですよ。自分は「右や!」って行くでしょう、それでスタッフもついていったらどこか別のところに行ってしまったりね。裏打ちのある決断力ならいいんですけど、それを身につけるまでは時間が掛かるんですよね。
     
田川   わたしが思うにね、決断力っていうのは、どこで切るかだよね。非常に単純に言うとね。何事にせよ、どこで見切りをつけるか、という決断力やね。
     
長野   間違った認識の中での決断力がある人間って一番質が悪いんですよ。良いものをやっていたら自分で身を挺してでもやろうよと言うんだけど。理路整然と杓子定規にタイムスケジュールに従ってやってますというだけ。なぞってるだけなんですよね。中身があんまりない。
     
田川   尊敬するミュージシャンは?
     
長野   矢沢さんですね。
     
田川   何をおいても?
     
長野   ですね。今までお会いした中でいうと、やっぱり音楽家として尊敬できる人ですね、矢沢さんは。音楽に対する勘というかな、それは素晴らしいですね。ああいうやんちゃくれな人ですけど、矢沢さんと五木さんは似てるんですよ。ただ、矢沢さんは人を使うことが上手いんですよ。「お前、なんじゃこりゃ!」ってやってるけど人の使い方はすごく上手。それと音楽に入った時にすごく可愛くなる人なんです。一所懸命になってね。それが素晴らしいですね。
     
田川   あの人はどこ出身だっけ?
     
長野   広島です。17歳くらいの頃に東京に出てきて途中下車したのが横浜だったんです。海があって広島と似ていると思ったみたいですね。横浜でバンドをしながら最終的にキャロルを結成して、そこで売れたんです。
     
田川   舞台監督を目指す人への提言と言えば?
     
長野   舞台監督だけではないんだけど、今仕事をしたい人、音響でも照明でも大道具でもいいんだけど、口開けて待っていても誰も餌を入れてくれへんで、自分から取りに行きなさい、ということですね。みんな口開けて待ってるんですよ。「何かくれるやろな」って。それが一番駄目だよね。食らいつく根性ですよね。自分から取ろうとする気持ち、その気持ちを持たないと何の仕事に行っても駄目ですね。今の若い人の98%くらいはそういう子ですよ。「自分から取りに行こう」っていう2%になりなさい、ということですね。
     
田川   割とそんなもんか?
     
    (2006年8月29日クリエイト大阪事務所で)
中央線エリア情報誌「ぐるり」06/10号より
VillagePress http://homepage1.nifty.com/vpress

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